2013年6月 2日 (日)

雑感

時間の過ぎる速さが年々加速するというのは、誰もが感じることだろうけれど

それでも口に出さずにいられないのは、

その事実に負けそうな自分を、何とか奮い立たせようとしているのか、

気づいてるよ、でも平気だよと、見えないその脅威に立ち向かおうとしているのか。

いずれにせよ、頻繁に口に出すようになった。

早いよね。怖いね、と。

そしてこのことに関しては否定的意見はまず出ない。

解決策はないので負け犬の遠吠えのようなものではあるけれど。

6月になった。

夏至が過ぎたらどんどん日が短くなり始めるのだと思うと、すでに物寂しい。

四月に五年間いた勤務場所から異動になった。

同じ場所で同じことをしていたい、というのは

社会人として働く上ではわがままだとわかっている。

それでも、

といいたくなるのをなんとか押さえて新しい場所で新しい生活を始めている。

始まってしまえば私の場所はそこしかないわけだから、

当たり前のように1日が始まり、1週間が終わる。

不満がないわけではない。

不安と不備と気苦労が全てといってもいい。

わけのわからない焦燥もある。

孤独感も。

でも時間は飛ぶように過ぎていく。

私がどんなに戸惑っていても、どんなに腹を立て、どんなに泣きそうになり、

疲れて倒れかけても。

だから

やれることは精一杯やって、あとは時間の過ぎる速さにまかせるしかない。

時間が味方になってくれる。

そう信じて毎日を過ごしている。

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2012年12月21日 (金)

ひとつの歌

「ひとつの歌」という映画を見始めてすぐ、映画を観ているということを忘れそうになった。
説明的なセリフも情景も一切そぎ落とされて、一人の男の姿を追っていく。
彼の眼に何がどんなふうに見えているか。
彼がそれをどう感じているか。
何も教えてはくれないから、私はひたすら彼の姿を目で追う。
バイクで移動する彼の背中を、同じようにバイクで追いかけているような感覚にとらわれる。
ただ目の前にいる彼を自分が追いかけている。

これは今、現実に起きている出来事なのだと思える。
彼が、駅で見かけたフラフラとよろけるように歩く、薄く奇妙な存在感の男を追うという、
ある意味ドラマティックな展開ですら、
気にしなければ見逃してしまいそうなさりげなさで、
でも気にせずにはおれないので私も一緒に追いかけて、彼がシャッターを切った音で、
撮られた男が振り返るシーン、その緊迫感に動悸を打つ。

極端に少ない訥々としたセリフも、お互いの話し言葉が少し重なったりする。
庭師である彼がトラックの荷台に荷物を積み込み、ひもをかけるシーンでは、
掛けたひもが外れたのをかけなおしたりもしている。
現実の世界ではよくあることだけれど、
脚本のあるドラマや映画ではあまりみない。
本来そんな不手際はドラマには必要のないものだから、
不要なものは綺麗に消されて全ての出来事が整然と並べられるのだろう。
でも現実はそんなに整然とはしていない。
その徹底した自然さが作られたものであることに改めて驚く。

情景が過ぎていく。
知ろうとしなければ、受け止めようとしなければ、
まるで何もなかったように世界は動いていく。
そんなことをこの映画は気づかせてくれる。

受け止めようと身を乗り出すと実にいろんなことに気づかされる。
彼が訪ねた家で、小さな子供が自分が作ったおみくじを、引いてほしいと母親にねだる。
子供の声があまりに耳に優しく響くので、ちょっと泣きそうになった。
もっと聞かせて
そう言いたくなる。

ある1シーンに一人だけ私が知っている役者が出ていた。
そのバイクショップではとても自然な会話が交わされていて、
いままでの、リアルすぎることで感じる胸苦しさのようなものが全くない。
フィクションであることの心地よさ。
それでいてそれまでの流れを決して壊さない不思議。
この映画は私を驚かせる不思議であふれている。

誰彼かまわず「観て」と勧めたりしないと思う。
いつかどこかで偶然のように
この映画を観た人に出会って話をしてみたい。

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2012年5月13日 (日)

日曜日

なんの予定もない日曜日だから、
なんにもしないでぼんやり過ごす

星野源のフィルムを何度も聴いて

何度か一緒に歌って

金曜日の出来事をいくつか思い出して

悲しくなったり

いいこともあったと思い返したり

そうしていたら日曜日と月曜日の境目が
すぐそこに見えて

やり残しはないかと慌てる

残したことも出来たことも
何もないなと開き直って

温かいベッドに入る

なんとなく切ない一日のあとも

温かいベッドはやっぱり優しい

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2012年1月 9日 (月)

泣いた日

ずいぶん久しぶりに書き始めるとどんなふうに書いていいか少し戸惑う。

今日は二回、ちょっとだけ泣いた。

一度目はニュース。

早朝の動物園に忍び込んだ誰かが、大量に花火を猿山に放り込み

サルたちが火傷をしたという。

そのニュースを見たときの気持ちは、拙い言葉では何と表現していいかわからない。

暗澹たるとでもいえばいいのか。

鼻の頭に火傷を負い、壁際で不安定に視線を泳がせる猿を見て涙が出た。

人間なんてダメなもんだと分かっている。

自分だってダメダメだもの。

でも自分以外の誰かの痛みを想像する感受性くらいあったっていい。

その、ただ残虐で無意味な行為により何らかの喜びを得るという

歪みとしか言いようのないものを抱えて生きる人間が

同じ社会の中で、あるいはすぐそばに存在するというのは

不気味としか言いようがない。

二度目は本。

瀬尾まいこ著の「戸村飯店青春100連発」

何度かここにも書いたことがあるとは思うが、私はタイトルマニアである。

そしてタイトル買いでは手にしないタイプの作品ではあるが、瀬尾まいこは嫌いではない。

詳しく内容は書かないが、一つ違いの兄弟の物語だ。

それぞれがそれぞれの立場でそれぞれの思いで一章ごとに語る。

18,9ならではの迷いや戸惑いやときめきがそれぞれらしく存在する。

その中にはいかんともしがたいやりきれなさとか、歯がゆさとか

大げさに言えばいうこともできるだろうことがさらりとある。

性格も感受性も全く違うから相手を誤解していたりもするが、

総じて登場人物はみんな悪い人たちではない。

間違っても大量の花火を猿山に放り込むような歪んだ悪意を持つ輩はいない。

そのことが物語として甘いのかどうかはわからないがホッとする。

物語の底に変わらず流れ続けている温かい心情に、ふと涙ぐんでしまう。

そうあってほしい物語に現実が追い付いてくれたらいいのに。

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2011年3月21日 (月)

今年に入ってどうも調子が悪い。

まず週末に旅行を予定していた木曜日から唐突に高熱が出た。

4日間寝込み、3週間声が元に戻らなかった。

ブレスレットが2本も切れた。

車のバッテリーが上がった。

頭痛持ちなので頭痛には慣れているのに、

薬も休息もがガチガチに固まった肩コリをほぐすマッサージも

何も効かないひどい頭痛と吐き気とめまいに途方に暮れてひたすら寝込んだ。

会いたい人に会えなかった。

戻ってほしくない人が戻ってくることになった。

旅行の予定がまたもや潰れた。

そしてまた、どうしようもない頭痛と吐き気に休日の二日間、なすすべなく寝ている。

悪いことが続くと自分の運のなさが情けなくなる。

自分という存在がやりきれなくなる。

テレビのニュースでは、今も大災害の惨状が流れ続けているというのに。

私は吐き気と頭痛の治まらないことにふてくされて、温かいベットで毛布にくるまっている。

阪神大震災の時、未曽有の大災害と言われた。

今、東北ではそれをはるかに凌駕した惨状が広がっている。

津波の映像を初めて見たとき、見ているものが信じられなかった。

そんなはずがないと思った。

私たちが日々営々と積み重ねている生活が、まるで軽く払い落とすように流されるなんて

想像ができなかった。

寒さに震え今を耐えている人々の姿にいくら涙しても、肩を抱いて温めることはできない。

大事なのは今だけではなくこれからなのだと、これからの生活の再建の過酷さを思うと

胸が潰れる思いがする。

それでも結局のところ

被災者は自分たちの苦しみもつらさも悲しみも大きな負債もすべて、

それぞれが背負って立て直していく。

私たちは私たちの生活を続けていく。

でも決してあなたたちを孤立させたりしない。

義援金を送り、祈るくらいしかないけれど、

私たちは自分のできることをし、国の力を信じる。

自らの危険を顧みず不眠不休で救出活動や、原発の復旧作業をしている人がいる。

彼らの背中を見つめながら祈り続ける。

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2010年12月31日 (金)

終わりの日

一年の過ぎる速さに気持ちが追いつけない。

そうか、また一年が終わるのか。

そう言って一年の終わりにため息をつくのは、
明らかに自分の責任だけれどやはり切ない。

目標は特にない。
ただ前向きで思い切りの良い生き方をしたい。

ただ漠然と良い年になるよう祈る年齢は過ぎた。

でも
明日はきっと今日よりも良い一日になる
そう信じられる気持ちがなければ
人が幸せになる術がない。

だから祈る。
思い通りにならず歯がみするような出来事が、
泣きたくても泣けない、唯胸に痛みだけを残す、
そんな心凍らせる出来事が、
決して私を絶望させませんように。

皆様にとっても幸せで優しい気持ちでいられる
そんな一年でありますようにお祈りいたします。


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2010年4月 4日 (日)

うららか

うららかとしか言いようがない、
今年初めての春らしい日曜日。
満開の桜並木にはあふれるほどの人。
電車の窓からその光景をみると
自分が意外と簡単に
幸せな気持ちになれることを発見する。

春は嫌いと言う人は結構多い。
その気持ちはわからなくはない。
春は期待するのと同じだけ不安がある。
それでも
春が嫌なんじゃなくて、今が嫌なんだと
認めてしまえばそれほどでもない。
いつか春の暖かく眩しい陽射しのような
濁りのない幸福感とともに
春を迎えられたらいい。

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2010年3月15日 (月)

TOO MUCH PAIN

どうでもいい事ではあるけれど、最近気になっているCMがある。

某女優がTHE BLUE HEARTS の「1000のバイオリン」を歌いながら歩いている

保険だかなんだか(記憶が曖昧)のCM。

見るたびに少しだけ残念な気持ちになってしまう。

歌は特別上手くも下手でもなく、そこそこといった程度。

悪くないという印象を持つ人もとても多いだろうと思われるけれど、

私はあのCMを見るたびに、どうしても本物を聴きたくなる。

ブルーハーツの歌はブルーハーツじゃないと意味が無い。

そう思ってしまう。

私はブルーハーツ世代ではあるけれど、ファンというほど思い入れが強いわけでもない。

それでもブルーハーツには好きな曲がたくさんある。

一番好きなのはなんといっても「Too much Pain」で、i-Podでランダムに曲を流していても

「Too much Pain」だけは必ず三度は繰り返し聴く。

ブルーハーツにはふと胸をつかれるような歌詞が多い。

真島昌利の詩的で切ない歌詞も甲本ヒロトのストレートでシンプルな歌詞も

その時々で心に残る。

だからこそ少し弱っているときには特別な曲になる。

「人にやさしく」なんて、「がんばれ」って言われる為に聴いてしまうわけで、

でもこの歌が凄いのは、「やさしさだけじゃ人は愛せないからなぐさめてあげられない」と

言い切ってしまうところだったりする。

だからこそ歌の中で連呼されている「がんばれ」が胸に響く。

生きるとか死ぬとか痛みだとかそんな直接的な言葉が、夢とか夕暮れとか夜とかの

暗喩的な言葉にまぎれてその存在感を増している、そんな歌も多い。

ストレートな言葉も抽象的な言葉も、ずっと以前に聴いていた時よりも

今聴いたほうがよりリアルに胸に迫るものがたくさんある。

はっきりと言ってしまえば、

以前は陳腐だとか綺麗ごとだと受け入れられなかった言葉も

今は素直に受け入れられるようになった。

自分の中の陳腐さや綺麗事が、生きていく上で当たり前のこととして

納得出来るようになったということなのかもしれない。

「泣かないで恋人よ」でマーシーが言っている。

あきらめ切れない事があるなら

あきらめきれぬとあきらめる

あきらめ切れない事があるなら

それはとてもいい事だ

これは一回りしないといけない言葉だと、今ならわかる。

言葉としての意味がわかっても本当に受け入れるのにはそれなりの時間と覚悟がいる。

今日も1000のバイオリンをCMで聴いた。

追いかけるみたいにブルーハーツを何度も聴いた。

日々は確かに「TOO MUCH PAIN」だけれど、唯それだけではないと信じられる。

職場で去年入った新人が、ブルーハーツを知らなかったことが

私たち世代には結構な衝撃だったのだけれど、

それよりも自分たちが知っている世代で良かったと思っていた。

きっと彼女たちには彼女たちなりのブルーハーツがいるのだろうけれど。

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2010年1月18日 (月)

神戸新聞の7日間

「神戸新聞の7日間」というドラマを見る。

あの大震災の日、壊滅的になった神戸の街で、全く機能を失った神戸新聞社が

「地元新聞社としてなんとしても新聞を発行する」という使命感のもと

幾多の苦難を乗り越えて、あの瓦礫の中、一日も休むことなく新聞を発行し続けた。

入社4年目の若手カメラマンだった三津山記者の視点から作られたドラマと、

実際の資料映像、そしてその時にその発行に携わった人々の15年目の

インタビュー映像を交えて番組は進められていく。

正直に言ってしまうが、私はそれほどこの番組が見たかったわけではない。

私にはこの震災に対して負い目がある。

神戸に生まれ育ち、今も神戸で生活しているが、この震災の時私は、

大学のある大阪に住んでいて神戸にいなかった。

それまでほとんど地震らしい地震を経験したことのなかった私は、

震度3の地震で飛び起き、あまりの恐さに神戸の実家に電話をかけた。

テレビでは大阪近辺の震度は発表していたが神戸にはまるで触れていない。

「すごく恐かった。本棚から本が落ちてきたし食器もガチャガチャなってたよ」

そんな他愛も無い報告をしてまた眠るつもりだった。

電話はつながらなかった。

理由がわからないまま、いつまでたってもつながらなかった。

時間がたち、テレビで少しずつ情報が流れ始めて、

神戸にとてつもない大きな災害が襲ったことだけはわかったけれど、

知りたい詳細な情報は全く入ってこない。

私は狭いワンルームのマンションの部屋で、テレビで流れ続ける

上空から撮影された見たこともなく崩壊した神戸の街の映像を見ながら、

かかるはずの無い電話をかけることしか出来なかった。

恐くて孤独で不安で、それでいてとてつもなく現実感が無かった。

家族の無事を知ったのはその夜12時を過ぎてからだった。

安堵して、そして泣いた。

それでもやはり今起きていることが現実だとは、どうしても実感できなかった気がする。

私がその後神戸に帰ったのは震災から3ヶ月も過ぎたあとだった。

家は外観だけでもすでに無残な姿になっていた。

白い外壁には大きなヒビが幾筋も入り、門柱は嘘のように分断され、

門から玄関へと続く階段はひび割れ、ところどころ崩れ落ちている。

そして玄関は若干歪んでいて、もはやその役割をなしているのか疑問だった。

家の内側は見なくても推して知るべしだ。あまりに切なくて胸が痛かった。

それでも家族は無事だったし、火事で全てを失ったわけでもなかった。

家は建て直さず、修理だけで何とかその姿を取り戻した。

私たちはとてもとても恵まれていたのだと思う。

街では至る所で途轍もない悲しみと苦しみが渦巻いていたし、

街を歩けばその痛々しさに胸がつぶれるような思いをしていたはずだ。

けれども私は、あの震災の尋常ではない数々の被害のほとんどを、

テレビや新聞など様々な媒体を通してしか知らない。

その申し訳なさが、私の負い目になっている。

だから震災を扱ったドキュメンタリーやドラマなどを見たり聞いたりすることを

どうしても避けがちになったまま、15年がたった。

このドラマを見たのは偶然だ。

でも、あるインタビューを見て目が釘付けになった。

神戸新聞の当時の記者や編集者という関係者たちの中に、

入社一年目の唯一の女性カメラマンがいた。

小藤と言う名前に聞き覚えがあった。

小学校の同級生だった。

特別親しかったわけではない。一度か二度遊んだ記憶があるだけだ。

でも彼女の名前と顔は覚えていた。

その時私の心にあったのは懐かしさではなく衝撃だった。

彼女が経験した苦しみも悲しみも葛藤も、もしかしたら自分にもありえたかもしれない

それだったという事実が、唐突に現実味を帯びて胸に迫った。

ドラマの中で記者たちは、地獄のような状況の中で、悲しみ苦しみの渦中にある人々に

カメラのレンズを向け記録していくことのためらいと、それでも記録していかなければ

という使命感と、そんなことをする意味が本当にあるのかという葛藤を抱えながら、

街を駆けずり回っていた。

この突然に襲い掛かってきた災害によって思ってもいなかったほどの

悲しみや苦しみを受けた人々の思いを記録していくことが新聞社としての使命なのだと

そう言った編集長の言葉は恐らく一つの真実なのだろう。

人はそれぞれの立場で真実と信じた信念を持って行動するしかないから。

それぞれの立場での真実も信念も人の数だけあるとしても。

数々作られるこのようなドキュメンタリードラマで、実際に経験しなかった人たちの記憶を

風化させないことは確かに大切なことなのだろうと思う。

実際に経験した人たちの悲しみを風化させていくことが大切なのと同じように。

痛みというものは実際に経験しなければどうしたって他人事だけれど、

もしかしたら自分にありえたかもしれないと想像することで痛む胸に多くのことを学ぶ。

それでも

やはり同じだけの気持ちで思う。

風化することに逆らうことはないんじゃないかとも。

何が正しくて正しくないのかはわからない。

唯そんな気がしてしまうだけだ。

人が生きることには悲しみが必ず付随する。

未曾有の大災害がもたらす凶暴で不公平で不条理な悲しみも、

個人がそれぞれに抱える、自らの力では如何ともしがたい理不尽な悲しみも

生きるうえではありえることだと同じように諦めるしかないだろうと。

だから世間にすでに曝されて周知の悲しみを、幾度も幾度も掘り起こすようにして

記憶として刻み続けるようなことになんとなくためらいがある。

普段はなんでもなく過ごしていても

唐突に、叫びだしでもしないと抱えきれないようなやりきれなさに襲われる瞬間を

多くの人が胸に隠し持っているはずだ。

個人的であるからこそ、他人には決して語れない思いを。

だから一つ一つのエピソードに触れて思わず声を漏らして泣いてしまうほど

悲しくて胸が痛んだとしても、

語ることで伝えることで記録して記憶に残す悲しみに違和感が消えないのかもしれない。

だからといってこのようなドキュメントドラマのような番組が作られることの意義を

全面的に否定していることでは決してない。

何十年かぶりに見た同級生の姿が私に色々な思いを与えてくれた。

彼女が今どうしているのかはインタビューだけではわからなかったけれど、

どうぞお元気で。そう伝えたい気持ちになった。

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2009年12月31日 (木)

Domino Effctにやられてみる

いつものことではあるのだけれど、
12月は過ぎていく速さを感じる間も無いままに終わり、
気がつけば今年ももう数時間を残すだけになっている。
この時期の凶暴なまでの過ぎっぷりには無抵抗にならざるを得ない。

一体何をしていたかと言えば
仕事と忘年会。
…なのか?
よくわからない。記憶も曖昧。
とにかく毎日忙しくて、週末ごとにやたらに食べていた気がする。

そして最後の駆け込み的に27日にはライブに。
北野のサテンドールにてDomino Effct というユニットのライブだったのだけれど、
連日の極限の疲れが来ている今、わざわざ日曜の夜に、
しかもまったくの初参加というライブに行くつもりは全くなかった。
でも前日26日の、友人二人と忘年会の際、 東京からの友人一人が
翌日の城ホールの馬場俊英のライブに参加する というなんとも羨ましい話を聞き、
なんだか自分も最後に思い切り詰め込みたくなってしまった。
ある種のドミノ効果。

というわけで、
ドミノ効果という名前のユニットのライブに
ドミノ的連鎖反応で初参加してみた。
サテンドールにはもう随分前に、小曽根真トリオのライブで行って以来。

Piano、Sax、Bass、drumsという4人のユニットのメンバーの中で
私がかろうじて知っていたのは朱恵仁というピアニストだけで、
彼のライブを見たのは確か、元町の萬屋宗兵衛だったのだけど
それも随分昔のことなので記憶が曖昧になっている。
それでも彼の名前を忘れなかったのは、その時に受けた印象が
あまりに強かったせいなのだと思う。

初参加だというのに案内された席がステージの真正面過ぎて
全体を広く見渡すには全く向いていない。
その代わりに楽器を弾く指先の動きが恐ろしいほどに見える。
もはや観察。
サックスをあれほど細かい部分まで見たのも初めてだったし
ベースの指の動きがあんなにも過酷だとは思わなかった。
思わず息を詰めて聴き入ってしまう。
ピアノを弾く指先の動きはハチドリの羽ばたきみたいで
もう見えない。
彼は常に笑顔で軽やか、そして激しくて緻密。
不思議な魅力を持っている。

思った以上にエネルギッシュ、しかもまとまりのあるステージで
初めてだけれど聴きづらさが全く無い。
時間の都合で最後まで聴けなかったのが残念だったけれど
また機会があれば聴いてみたい。
出来ればもう少し後ろの席で。
今年最後の日記がこんなにも取り留めの無い日記で良いのか?と思いつつ…。
皆様どうぞ良いお年をお迎えください。

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2009年11月 1日 (日)

貝が落ち葉を食べる音

何を見るでもなくテレビをつけたままにする癖がついている。

部屋の中に何か音や動く画がある方が落ち着く、というのは

あまり健全な状態だとは思えないけれど、それでもなんとなく習慣化していて

起きている間ずっと漫然とテレビを流し続けていたりする。

今夜もいつものごとく他の作業をしている横でテレビは流れ続けていたのだけれど、

ふと何気なく画面を見たときに、番組と番組の間の何分かの

スキマのような時間に放送されている番組が始まった。

その時私の目に飛び込んできた言葉が

「貝が落ち葉を食べる音」

今日は貝が落ち葉を食べる音を放送します、ということらしい。

もちろん私の目は釘付けになる。

多少「まさか」と言う気持ちもある。

そんな私の戸惑いをよそに淡々と番組は進み、キバウミニナという貝が

黄色く色づいた落ち葉をガシュリガシュリ、パリリパリリ、と

小気味良い音を立てて食べている映像が流れている。

もちろん貝が生き物だということも、食べ物を食べて生命活動を維持していることも

理屈ではわかっていたけれど、貝が食べている音に耳を澄ましていると、

生きているということの実感、というか生々しさみたいなものをあらためて感じる。

そして番組はただそれだけなのだけれど、キバウミニナの無心に食べている姿が

なんだかとても良くて、心の中がシンとするような不思議な心持ちになった。

そんな風に思えるのは、初めて聞く音のせいだ。

それにしてもこんなに「非日常の日常」のささやかな「音」を流す番組ってなんだろう。

面白いものに出会うとちょっと得をした気がして嬉しくなる。

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2009年8月16日 (日)

思うこと

今週の初めから、家でも職場でもニュースのたびについ顔をあげて、

テレビの画面に見入ってしまう日が続いていた。

大きな水害と大きな地震とが一度に起こってしまうと、画面を見ても一瞬では

どちらのニュースが流れているのかわからないけれど、

どちらにしても心痛む状況であることにかわりは無い。

水害の起こった佐用町に実家がある知り合いが、月曜の朝から実家に緊急で帰っている。

朝、出勤するや否や、彼の家が「水没したらしい」という話を聞き、

恐らく「浸水」ということなのだろうけれど、その言葉のすれ違いを笑うような余裕も無く、

それからはずっと、ニュースを見るたびにどうしているだろうかと気にかけている。

身近な人が関係しているかどうかで気持ちの持ちようが違うのは、

身勝手なものだとは思うけれど、やはりどうしようもない。

御家族にお怪我は無かっただろうかとか、普段から仕事がハードな彼が心身ともに

消耗してしまったりしないだろうかなどと、ふとした瞬間に気にかかる。

それでも、自分が安全な場所にいる事で、その緊迫感はともすれば薄れがちで、

「今日は日傘か雨傘か」などと呑気な心配をして天気予報を見ていたり。

画面で見ている惨状が現実であるという認識すら揺らぎそうになっていることに驚いたり。

そんな時、自分の無力さを痛感する。

否応無く引き起こされる天災に対してあまりに無力であることはもちろんなのだけれど、

それ以上に心が無力なんだと。

でも

無力であることを知ることで心が守られているのかもしれないとも思う。

例えそれがとてつもなく刹那的な生き方であったとしても、

いつまでも心が緊縛されたまま立ち止まるよりは楽だと。

忘れることで流されることで守られていくものもある。

思いが飛躍しすぎて、一体何を書こうとしていたのか全くわからなくなってしまった。

佐用町ではまだ行方不明の方の捜索が続いているらしい。

被害を受けられた方々の心の痛みには、出来ることが何一つ無い。

ただそのもどかしさに、疼く様な痛みを感じることぐらいしか。

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2009年5月 3日 (日)

君が僕を知っている

わざわざ選んで聴いた事は一度もなかったと思う。

でも素通りすることはなく、どこかでは出会っている。

そんな世代なのかもしれない。

「トランジスタラジオ」「雨あがりの夜空に」「君が僕を知ってる」「スローバラード」…

子供の頃初めて彼を見たとき、そのどぎついメイクのインパクトに圧倒されたが、

大人になって聴いた彼の歌はそんな見た目の奇抜さなど不必要な力があった。

これからも選んで聴くことはないのだろうけれど、

きっとどこかで度々出会うような気がする。

だから別に関係ないんだよと思うのに、

それでもやはり彼の訃報がとても悲しいと思ってしまうのはいたしかたない。

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2009年2月 3日 (火)

犬の心にゆったり感

犬の心がわかるようになったのはごく最近の事で、

初めて知った時はちょっとした驚きだった。

でもそれよりさらに不思議だったのはゆったり感かもしれない。

犬の心にゆったり感って。

一体何の話をしているのかと訝しく思われているに違いない。

「犬の心」も「ゆったり感」も若手お笑いコンビの名前である。

名前というのは難しい。

全く知らない人にとっては、それがどんなものであるかということを推測する、

最初の手がかりみたいなものにもなるし、それ以後の印象も随分変わる。

本でも映画でも舞台でもタイトルの影響はあるものだけれど、芸名やコンビ名というのは、

ずっと背負っていくものなので、その影響力は一つの作品の比ではないが、

その存在がそれなりの認知をされていくと、どんな名前でも受け入れられていくという、

その良し悪しの評価は結構曖昧でもある。

昔から奇抜なコンビ名はあったのだろうし、多分私が知らないだけで、

お笑い界には今もこれ以上に奇抜で多種多様なコンビ名が溢れているに違いない。

たまたま知ったこの二組の名前が気になるのは、単に私の好みというだけだったりする。

ゆったり感。

なんだか意味もなく呟いてみたくなる。

「ゆったり感」という名前のコンビが一体どんなネタをするのか、非常に気になる

ところなのだけれど、まだ一度も観る機会がなく、いまだに顔すら知らない。

そして実は、ネタ自体にハマっているのは「犬の心」の方だったりする。

彼らは結成10年を超えるコンビだけれど、私はテレビでは一度も見たことがない。

でも最近は当たり前のようになった、ネット配信では頻繁に見る事が出来る。

初めて見た時、面白いんだけれど、ちょっと苦手。そんな印象だった。

ツッコミの押見泰憲のがなりたてるような声が気になったせいでもある。

そう思いながらも、どこかにひっかかって仕方がないので、続け様にいくつかネタを見る。

そうすると不思議なことに、苦手だったその声が妙に後を引く。

そのがなる瞬発力と、そこから絶妙のタイミングで引くという緩急が面白いし、

相方の池谷賢二の演技がマイペースでブレがないので、押見の緩急のあるキャラとの

バランスがとても良い。

観たネタの全てが面白いと思ったわけではないけれど、犬の心というコンビのもつ

独特の世界は充分魅力的だった。

独自の世界を確立してそこに立ち続けるのは、そしてそれが受け入れられるというのは

とても難しいことだし、そこには確固たる答えはない。

彼らの作る世界は、あるといえばある、ないといえばない、そんな曖昧なものに思える。

「演劇は風に書いた文字」 といったのは、演出家のピーター・ブルックだったっけか?

同じ意味ではないけれど、それに近い気がする。

今間違いなく掴んだものが明日は手の中にはない。

そんな繰り返しの中で、それでも尚彼らは造り続けるのだということに心動かされて、

彼らの作る世界を見続けているのかもしれないなと思ったりもする。

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2009年1月22日 (木)

不機嫌な赤いバラ

先日、暇つぶしに書店をフラフラして、何冊か本を買った。

その中に「夏の名残の薔薇」 (恩田陸)があったが、今回もそうなのだけれど、

私はこの人の本は、かなりの確率でタイトル買いをしている。

初めて買ったのが「三月は深き紅の淵を」で、次に選んだのが「象と耳鳴り」

その後何冊か読んだはずだが、タイトルに惹かれて読んだ前記二冊の印象が強い。

短編集である「象と耳鳴り」は特に好きで何度も読んだ。

象と耳鳴り
恩田 陸
4396631588

さりげなく静かな情景の中に立ち上がってくる謎に、思わず心惹かれる心地よさがあり、

推理小説としての面白さのみではなく、言葉の選び方がとても好みにあっている。

その中に「曜変天目の夜」というタイトルの一編がある。

私は曜変天目という言葉自体を知らず、この小説で初めて知ったのだけれど、

この想像力を掻き立てる魅力的なタイトルがとても印象深い。

「夏の名残の薔薇」はある映画のイメージを重ね合わせて物語が進められるため、

たびたびその映画のシーンが原作でもシナリオでもない、散文のような形で挿入される。

そのような流れで書かれたからなのか、作者の好みによるものかはわからないが、

登場人物たちの台詞の中には様々な映画や芝居についての叙述が見られる。

その中で気になったのは、ある芝居についての叙述で、「ある詐欺師グループの話」で

「詐欺の腕を磨くために作り話をリレーしていく練習」をしていて「聞き手の注意を引き、

なおかつ語り手を信用させるもっともらしい話をアドリブで繋ぐ」

これは恐らくMONOの「約三十の嘘」のことについて書かれているのに違いない。

同じ芝居を観ている人の数は同じ映画を観ている人の数に比べて格段に少ない。

だからこそその共有感覚は特別な思いがする。

そしてこの本を読んでいてふと思い出したのが映画「不機嫌な赤いバラ」

1994年公開のシャーリー・マクレーン、ニコラス・ケイジ出演のコメディータッチの映画

…らしい。

というのは何度も観たいと思いつつも、いつも見逃してしまっているので

内容についてはほとんど知らない。

ただシャーリー・マクレーンが元大統領夫人であるらしく、タイトルが彼女のことを

表しているのだろうことは想像できる。

観たいと思う理由は、内容ではなくこのタイトルだと思う。

そして連想ゲームのようになるが、この「不機嫌な赤いバラ」から思い出すのが

「星の王子さま」に出てくる、王子さまの星に咲く一輪のバラの花である。

星の王子さま―オリジナル版
Antoine de Saint‐Exup´ery 内藤 濯
4001156768

「星の王子さま」を初めて読んだのは二十年以上も前のことになる。

今改めて読み返しても、心に残るのは初めて読んだ時と同じ言葉であったりするのに、

その言葉の、記憶していた以上に切実な響きに驚く。

「砂漠が美しいのはどこかに井戸をかくしているからだよ」

王子さまの小さな星に咲く、高慢で嘘つきで我がままでずるい、そして

「ホロリとするほど美しい」たった一輪の花。

王子さまとその花の関係の切なさに。

王子さまとキツネの刹那的ではあるけれども確かな心の交流に。

王子さまと航空士の別れの、胸が締め付けられるような寂しさに。

それら全てに自らの心情を重ね合わせることが出来る。

「ぼくはあんまりちいさかったから、あの花を愛するってことがわからなかったんだ」

王子さまがそう言って逃げ出した花の元へ再び戻っていったように、

「あの花を愛する」ということ、そして「不機嫌な赤いバラ」は他者のみならず

自分の中にもあることに気づかされる。

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2009年1月12日 (月)

東京サンシャインボーイズの甘い罠

「ショウ・マスト・ゴー・オン 幕を下ろすな」の舞台中継を、

初めて真夜中のBSで見た衝撃は忘れられない。

学生だったので、テスト勉強のために夜遅くまで起きていたが、

なんとなく集中せずにテレビをつけて観ていたのだと思う。

物語は上演時間の迫った舞台の舞台裏で始まり、上演後の舞台裏で終わる。

それがどれだけ面白い舞台で、私がどれだけそれに衝撃を受けたのかということは、

番組の途中にも関わらず、思わず録画ボタンを押し、頭の部分のない録画を

ずっと大事に置いていたことからもわかる。

それが東京サンシャインボーイズという劇団であることがわかったのは

全て見終わった後のテロップで、その芝居を書いた作家は三谷幸喜だった。

だから私は三谷幸喜という脚本家を舞台ではなく、「やっぱり猫が好き」や

「振り返れば奴がいる」等のテレビドラマの方で先に知っていたことになる。

主役の西村雅彦は前述の「振り返れば奴がいる」で織田裕二演じる司馬に謀られ、

職を失う医師の役で、小心でこずるい演技で印象的だったが、舞台での立ち姿は

しびれるほどカッコよかった。

伊藤俊人も梶原善も相島一之も甲本雅裕も…その他に知っている役者は

誰一人いなかったのにその舞台はあまりに魅力的だった。

勿論私が無知だっただけの話で、小劇場界ではあまりに有名で人気の劇団だったから

その完成度の高さは当然のことだったのだ。

しかしながらその次の公演「東京サンシャインボーイズの罠」が最終公演となり、

30年間の活動休止となったので、この劇団に関しては完全に乗り遅れた後悔が

今も残っている。

この長い話が前置きなのだけれど、「東京サンシャインボーイズ」が、

15年ぶりに復活するというニュースを聞いた。

3月末に閉館する小劇場シアタートップスの最後の公演のためのものらしい。

それにしてもたった150席ほどの劇場での公演が12日間だけ。

チケットが取れるはずもないが、心踊るニュースであることは間違いない。

とりあえず夢を買うつもりで宝くじのようなチケット獲得に参戦してみることにする。

それにしてもシアタートップスといえばカクスコだってホームグランドだったわけだし、

この際カクスコの復活も…などと夢が膨らんでしまうけれど、

どちらにしたってチケットの獲得はそれこそ夢のような話なのだ。

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2009年1月 7日 (水)

観る?観ない?

最近邦画で面白いものが多くて、ついつい観るのも邦画寄りになっているのだけれど、

テレビシリーズから派生して映画になったものはほとんど観ていない。

特別な理由はないけれど、テレビを映画館でわざわざ見るような居心地の悪さを

感じてしまうし、内容にもそれほど興味がわかなかったり。

そういえば「踊る大捜査線」は観たけれど、この番組には小劇場系の大好きな役者陣が

こぞって出演していたので、楽しみでずっと観ていたし、テレビシリーズには出なかった

小須田さんが映画で出演したときは、スクリーンを見ながら緊張した記憶がある。

いまでこそ多くの舞台の役者さん達がテレビや映画で大活躍されているけれど、

以前はあまり見かけることがなかったので、「踊る」のテレビシリーズは宝箱みたいで

楽しくて仕方なかった。

話がそれた。

そういうわけで昨年映画化された「相棒」ももちろん観ていないのだが、

その「相棒」のスピンオフ映画が制作されるという、ちょっと驚きのニュースを見た。

スピンオフ映画というのは珍しいことではないけれど、「鑑識・米沢守の事件簿」ですよ?

鑑識・米沢守って扉座の六角精児さんですよ?

舞台ではもちろん有名な方ではあるけれど、映画のタイトルロールだなんてちょっと驚く。

テレビで大人気の「相棒」シリーズにずっと出演されているわけだから、

私が知らないだけでその知名度はかなりのものなのだろうけれど、

それでもタイプ的に主演というイメージがなかったので失礼ながら相当驚いた。

初めて六角さんを舞台で拝見したのは91年の加藤健一事務所の「ラブゲーム」だから

もう18年くらい前になる。扉座がまだ善人会議だった頃。

一人だけ外国人で言葉が通じない、やたらにテンションの高い役だった。

随分年配に見えたのだけれど、あの時、実はまだ29才だったという事実に

今改めて驚いた。

ちょっとした得体の知れなさ、つかみどころのなさみたいなもののせいで、

年齢不詳というか、あの頃と今とが全く印象が変わらない人なのだ。

とにかくそれだけでも興味津々な映画なのだけれど、その主題歌を

エレファントカシマシが担当するという「さらに倍」的な驚き。

これはもう相当気になる。

映画館に足を運ぶかどうかかなり葛藤しそうな予感がする。

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2009年1月 5日 (月)

SすたーDだすとDだすと

明けましておめでとうございます。

相当な出遅れ感は否めませんが、普段から滞りがちなブログですので、

どうか御容赦くださいませ。

なんでしょうね、

恐ろしい勢いで時間がたつもので、このブログには全く季節感がないです。

今年の目標はブログ更新頻度のアップ…です、一応。

ところでタイトルの(すたーだすとだすと)ですが、

12月の始めにスターダストレビューのライブに行ったという安易な理由。

スタレビライブは2度目という超初心者。実はライブも知らない曲がすごく多い。

でもそんな私でも無条件に楽しい。彼らが楽しませよう楽しもうとしているエネルギーが

ダイレクトに伝わってくる、そんなライブなのです。

SすたーDだすとDだすとは要さんがライブ中に連呼していた言葉なのですが、

本当はSTOP DRUNK DRIVINGプロジェクトの略。

スターダストレビューもこの「飲酒運転撲滅プロジェクト」に参加していて、

2月にはこのプロジェクトによる二度目のライブが大阪城ホールで行われるそうです。

事故は色んな要因があって起きることだから完全に防ぐことは出来ない。

でも飲酒運転はしないと決めたら完全になくせるんです

ライブ中は常に高いテンションで話している要さんが、その時だけはとても静かに

そして力をこめて語る姿がとても印象的でした。

昨年はひき逃げ事故、しかも相手を引きずった上で逃げる事故が多発していました。

その加害者は飲酒運転であった場合が多かったのも特徴の一つ。

もしも逃げようとして相手を引き込んだまま走行を続けなかったら、助かった場合も

きっとあった筈で、その痛ましさは例えようがありません。

そんなニュースを聞くたびにどうしようもなく悲しく虚しい、人というものに期待することを

止めざるを得ないような、諦めの感情に支配されました。

だからこそ彼の言葉は心に残りました。

「しないと決めたら完全になくせる」 至極当然のことなんですけどね。

これからまだ新年会など飲酒の機会も多い季節です。

どうぞ全ての人の心に届きますように、と祈りながら

「すたー だすと だすと」と呟いてみることにします。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

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2008年11月24日 (月)

情熱と愛着と

結局、シーズン最後の試合にも彼の出番はなかった。

「戦力外」という通告を受けた彼にとって、18年所属した横浜ベイスターズでの

生涯最後の試合であるにもかかわらず。

それなのに、

それだから、というべきか、試合後、球場を埋める大勢のベイスターズファンから

吼えるような声援が起こり、それはいつまでも止むことなく続いた。

彼らが呼び続けていた名前は、「たかのり」 背番号51 鈴木尚典。

父が阪神ファンなおかげで、対外的には家族で阪神タイガースを応援している、

ということになっている。

ただ、私も母もそれほどタイガースに熱中しているわけでもないので、

他チームにも応援している選手が意外と多くいる。

以前にも書いたけれど、桑田真澄投手(18)や津田恒美投手(夏に思い出すひと)が

そうだし、顔面に受けたデッドボールの大怪我から復帰した、元巨人軍の

村田真一捕手(現コーチ)のことは、復帰から引退、コーチとして活躍している

今に至るまでずっと応援し続けている。

そして横浜ベイスターズの鈴木尚典選手もその一人だ。

ただ前述の三人に明確に応援する理由があったのと比べて、実は鈴木尚典には

それがない。きっかけは何か?と訊かれても良くわからないとしか答えられない。

「彼のしなやかで柔らかい、抜群に華麗な打撃フォームが好きだから」

これは理由になるだろうか。

彼が二年連続で首位打者を獲得した頃のベイスターズはとにかく強かった。

1997~1998年頃のことだ。

マシンガン打線と呼ばれた見事に途切れなく打ち続ける打線の中に彼がいた。

細身で長身の彼の打撃フォームはひときわ目を引いた。

打撃フォームというのは「形」の問題で、野球選手としての能力や資質とは

必ずしも直結するものではないだろうけれど、それでもバッターがバッターボックスに立つ

あの短い時間の中では、彼らの選手としてのポテンシャルのみならず、

時には人としての在り方も、如実に現れる。

彼の立ち姿が何を語っていたか、明確に説明することが出来ないのだけれど、

少なくともその立ち姿が語る、彼の中のなにものかに惹かれて応援していた。

彼が打撃不振に陥りスタメンから外れ、代打でしかその姿を見ることがなくなってからは

彼の出場機会が目に見えて減っていくことに、心を痛めていた。

彼の不振は数年に及び、監督が交代しても、出番が増えることなかった。

だから、戦力外通告を受けたというニュースは、悲しかったけれど、

決して意外ではなく、むしろとうとう来たかという思いがした。

だからといって彼が引退をするなどとは思わなかったし、他球団で心機一転することで、

もう一度全盛期の活躍を取り戻すことを期待すらした。

彼は引退と、他球団での現役続行で悩んだ中でどうしても消えなかったものが

横浜高校時代から21年間過ごした横浜への愛着だったと語っている。

「自分は横浜に育てられた選手だという自負がある。他球団に移籍し、

ぼろぼろになってでも現役にこだわるという選択肢を考えながらも、最終的には

横浜を去って他のチームでプレーする自分の姿が想像できなかった」と。

選手としての活躍をもっと見たかったというのは、ファンとしての感傷に過ぎない。

最後の試合、声を振り絞って彼を呼ぶファンの姿を見たら、彼の横浜、そして

横浜で彼を応援する人々への愛着は当然のことなのだと感じる。

スポーツというものが不思議なのは、選手と応援する側の人間との関係は

決して一方通行ではないということだ。

お互いに与え合っている。

大きな葛藤の末、鈴木尚典はファームのコーチとしての新たなスタートを切った。

高校時代の監督には「鈴木尚典以上の選手を育てろ」と発破を掛けられているらしい。

そして今日、来年3月のオープン戦で鈴木尚典の引退試合が行われることが決まった、

という嬉しいニュースを聞いた。

彼が悩んで決めたことへの一つの答えでもある。

ファンにとってはわずかに残る感傷を振り切って、彼の踏み出した新たな人生へ

心置きなく声援を送ることの出来る、そんな大切な日になる。

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2008年10月 8日 (水)

クォークとかペンギン過程とか

米シカゴ大の南部陽一郎名誉教授
高エネルギー加速器研究機構(高エネ研)の小林誠名誉教授
京都産業大理学部の益川敏英教授
三氏のノーベル物理学賞受賞が決まったらしい。
私もそのニュースに気持ちは高揚するのだけれど、
ただ、私にはその功績について理解する能力が全くない。

ニュース番組で生のインタビューをしているのをみていたら、
インタビュアーであるメインキャスターも、失礼ながら
私とそれほど変わらない位のわからなさ加減らしく、
すぐに質問に詰まって「御趣味は?」と聞いて
「…まぁ昔はスポーツもしましたけれど」という答えに
それ以上広げられずに沈黙、というキビシイ場面もあったり。
専門的な内容に踏み込むのは一般人には無理があるけれど、
いきなり「御趣味は」はないな、と苦笑してしまったけれど、
苦しい立場の彼の気持ちはよくわかる。

日本人の物理学賞受賞と聞いて思い浮かぶのは最近の受賞者よりも、
湯川秀樹や朝永振一郎 、江崎 玲於奈といった少し前の年代の方々で、
しかも湯川秀樹といえば「旅人」は好きだったなとか、朝永振一郎は
舞台「東京原子核クラブ」の主役の友田のモデルになった人だったな、
とかどうでも良い事ばかりに思いが飛躍して、
肝心の功績についてはやっぱりわからない。
どうでもいいことだけれど、
「東京原子核クラブ」は劇団M.O.P主宰のマキノノゾミ脚本、演出の舞台で
今までにマキノ演出版は二度、俳優座版でも二度上演されている。
もう一度みたいなと思い返す舞台のうちの一つ。
その舞台ももう10年ほども前になると思うと時間のたつ速さに愕然とする。
…完全にノーベル賞から話が逸れている。
意識的逃避だ。

だってもう、ここまできっぱりとわからないとかえって気持ちが良い。

クォークについては全くわかりませんが、
とりあえず受賞おめでとうございます。

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2008年9月15日 (月)

阿片と拳銃

最近書くもの書くもの、ことごとく湿っぽい文章になっていて、

その湿り加減は、なんで?年齢のせいか?そうなのか?と、

思わず問いかけたくなるほどで、自分でも多少食傷気味になっている。

なんとかからっとした爽やかな文章が書けないものだろうかと、

思いつつ書いた文章がやっぱり思い切り湿っぽい。

もう仕方ないかと開き直って、思いつくまま好き放題に書いてみる。

もう今更という感じだが、7月に劇団M.O.Pの第43回公演、「阿片と拳銃」を観た。

いつもながらの舞台を安心して楽しみながらもやはり、多少感傷的な気持ちになる。

M.O.Pは二年後、今回の公演をいれて三回の公演を最後に解散することを発表している。

私が最初にM.O.Pに出会ったのは劇団の本公演ではなくて、1994年の

OSAKA感劇祭という演劇イベントの中での、M.O.Pのプロデュース公演だった。

プロデュース公演なので劇団以外の客演も多かったが、劇団主力のキムラ緑子、

三上市朗、小市慢太郎という面々はもちろん出演していた。

面白かったと思うのに、でもその時の記憶はあまりなくて、

その後、彼らが出演した他の劇団の舞台やプロデュース公演をいくつか見た後、

M.O.Pの本公演に初めて足を運ぶのはそれから随分後、98年の「遠州の葬儀屋」

それ以降はM.O.Pの舞台には出来うる限り足を運んだ。

そんなM.O.Pも二年後にはなくなってしまう。

またか、と思う。

大好きなものはいつかなくなってしまう。

どんなに好きでも、大事に思っていても、決してそのままではいてくれない。

とてつもなく寂しいけれど、それが当たり前の事なのだと受け止められる程度には

さすがに大人になっている。

それでも劇団を失う劇団員の気持ちはどうなんだろう、と余計な事ながら考えてしまう。

恐らくそれぞれに納得して決まった事には違いないし、年に一度公演を打つという

劇団のみを拠り所にしている人はいないはずだけれど、それでも必ず帰ることの

出来る場所があるかないか、というのは随分と大きな変化だろう。

少し話はそれるのだけど、

以前に記事に書いた「まいご3兄弟」の四草(加藤虎ノ介)の台詞がふと頭に浮かんだ。

「僕には帰る場所なんて無い。真っ直ぐ立っていられる場所すらない」

彼が本当に求めた「帰るべき場所」とはどんな場所なのかはわからないけれど、

でも、絶対的な場所があるというのはやはり幻想だ。

こんなにも簡単に、今日までは確かにあった物が明日には消えていく。

私はいるべき場所なんて本来曖昧なものだけど、そう感じさせてくれるものがある

ということが人を幸せにしてくれる、と書いたのだけど、

何をどんな風に感じられるかというその人の資質が、その人自身の幸せを決める

全てである気がする。

…一体何の話でしたか?

そうそう、「阿片と拳銃」は最近のM.O.Pの舞台の中でもかなり良い出来だったので、

それだけに寂しさもひとしおなのだけれど、脚本を書いたマキノノゾミによると、

脚本が出来る随分前からタイトルだけは決めなくてはいけなかったので、

「阿片と拳銃」と思いつきで言い切ったはいいが、いざ書く段になって

「どうするよ?」と困ってしまったらしい。

出来上がってみれば、最初から阿片と拳銃ありきで書かれたように感じるほどに、

マキノノゾミではあまり見た記憶のない、時系列の入れ替わる、複雑だけれど

完成度の高い物語に仕上がっていた。

(やや長すぎると感じないこともないけれど)

終演後、早足で出てきたら、物販にすでに小市さんがスタンバっていて

そのあまりの速さに「速っ」と思わず声に出してしまった。

急いでいたので残念ながら足をとめることが出来なかったけれど、、

そんな姿もあと何回かしか見られないと思うと、またちょっと寂しくなったり。

とかグダグダといいつつも、あと2年、2回の公演を残しているわけで、

楽しみがあと2年続く、と前向きに待てばいいんだな、きっと。

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2008年9月 9日 (火)

泣くな、さかがみ

久々に電車通勤になって二ヶ月。毎朝、窓から海が見えることにも新鮮さがなくなり、

まるで何年もこんな生活をしているような気がするくらいに慣れた。

私が乗降する駅はすぐそばのJRの駅に比べるとやや地味なので、

時間的なものもあるが、帰りのホームは大抵閑散としている。

8つ並んだベンチの端のいすに座ると、少し離れて一人二人座る程度。

昨日も12~15分に一本という特急を逃してしまい、仕方なくベンチに座って

それほど気もなく本を読んでいると、男子中学生が二人、二つ離れた椅子に座った。

夜の7時半ごろなので、普段はあまり中学生に遭遇することはなく、ちょっと違和感が

あったうえに、なんだか不穏な音が聞こえてくる。明らかに泣きじゃくっている声。

「えーっ!」と驚いたけれど横を見るわけにもいかず、かといって気になるので、

いまさら本に集中も出来ない。

泣いているのは一人だけで、もう一人は困り果てた様子で時々声をかけている。

「…なあ、もう泣くなや」

「…多分大丈夫やし」

「…さかがみのせいとちゃうって」

多分その10分ほどの間にかけた言葉はそれぐらいだったと思うけれど、

その声の調子の優しさに、お行儀悪く聞き耳を立てていたお姉さんは

ちょっと心打たれたわけです。困ってはいるけれどあきれているわけでも、

慰めるのが面倒になっているような突き放した言い方でもなく、

割と淡々と、でもどこまでも付き合ってくれそうな温かさのある声で。

そのうちに電車が入ってきて、彼らの顔をみずに隣の車両に乗り込んだので

さかがみくんが泣いている理由はわからなかったけれど、

さかがみくんがどこまで泣き続けたのかもわからないけれど、

もう一人の彼は、多分泣き止むまで付き合ってくれたんじゃないだろうか。

さかがみくん、

泣きたいときに好きなだけ泣けるのも、そんな時にずっと寄り添ってくれる友達がいるのも

当たり前のことじゃないんだよ、とお姉さんは思いました。

ちょっと羨ましかったよ。

だから、泣くな、さかがみ。

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2008年8月22日 (金)

ダークナイト

子供の頃から格別に怖がりで、とりわけピエロのペッタリとしたあの白塗りの顔と、

裂けるように赤く大きく塗られた口がとても怖くて、子供の頃に見る怖い夢の中には

やたらにピエロが出てきて怯えさせられた。

バットマンシリーズに出てくるバットマンの宿敵ジョーカーは

まさにそういうメーキャップを施した気味の悪い容貌で、

いかにもコミックから出てきたというような、犯罪者というよりも怪人というイメージだった。

コミックが原作のアクション映画というジャンルには興味がないという

頑なな先入観がある上、ましてやそんな怪人の出てくる映画を観てみたいとは

到底思わなかった。

だから今までの映画のバットマンのシリーズは1作も観ていない。

でも今回に限ってふと観る気になったのは、予告で観たまさにそのジョーカーの

異様な存在感に他ならない。

最新作「ダークナイト」のジョーカー役はヒース・レジャー。

「ブロークバック・マウンテン」のヒース・レジャーがコミックの登場人物を演じるという

驚きもあったが、目の周りを黒く縁取り、白塗りの顔に赤く裂けた口、

お決まりのメーキャップでありながら、以前のシリーズでジャック・ニコルソンが演じた

ジョーカーの容貌とのあまりに違う、その凄みに圧倒された。

いかにもコミックの怪人的に見えたややコミカルなジャック・ニコルソンに比べて

無造作に手で塗り上げたような、それだけで狂気を感じるメークのヒース版ジョーカーは

あまりにリアル。

それは顔に異様なメーキャップを施した恐ろしい顔をしただけの、

間違いなく人間の犯罪者で。

ヒース・レジャーが今年1月に急逝してしまったために、彼の残り少ない出演作を

見たいという思いが、後押ししたことも事実だけれど、

あのジョーカーを見てしまったら観る。やっぱり。

映画の物語は私の予想を裏切って、シリアスで思いのほか深みのある内容だったが、

それは狂気と悪意の権化として描かれるジョーカーの圧倒的存在感が

そう感じさせるところは大きい。

でもジョーカーの悪意に翻弄される人々の暗部に深く踏み込んでいく、その救いのなさが

ちょっと辛くて、見える光が微か過ぎて、確かにそれが見ごたえがあるわけだけど、

子供たちも楽しんで観られるというスタンスの映画であることを考えれば、

「バットマン」という映画はこういう視点で描かれるべきものなのか?

という疑問がなくもない。

映画として物語が面白いことはもちろん大切。

でもその存在理由や存在位置を裏切らないことも大切なんじゃないかと、

ほんの少しだけ思ってしまった。

タイトル「ダークナイト」は「闇の騎士」なのだけれど、私のこの映画に対するイメージは

どちらかといえば「闇夜」に近い。

「夜明け前が一番暗い。でも必ず夜明けは来る」

本編中に出てくるそんな台詞を受けるとますますそんな気がするし、

闇の騎士たるバットマンの存在感があまりに希薄だったせいもあるかもしれない。

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2008年7月29日 (火)

「まいご3兄弟」みた?

久々の更新でいきなりだけれど、

テレビドラマ、ちりとてちん外伝「まいご3兄弟」のお話。

思い切りネタバレしますので、未見の方は御注意ください

「ちりとてちん」というドラマについては徒然亭の人々で以前書いた。

その外伝ドラマである「まいご3兄弟」が先日放送された。

「ちりとてちん」は主人公である女流落語家を主体に物語を進めながらも、

その周りの登場人物も比較的丁寧に描かれていたドラマだったと思う。

とはいえ、周りにスポットが当たりすぎると全体の流れがぼやけてしまうため、

やはりヒロイン以外の人間については見えない部分ももちろん多い。

今回のドラマは本編の最終回から10年ほど遡るある夜の、ヒロインの兄弟子三人の

物語で、その見えなかった内面が垣間見えるドラマになっている。

描かれているのは四番弟子の四草(加藤虎ノ介)の心の葛藤で、彼は本編中で

「妾の子」で「母親は一生遊んで暮らせるお金をもらって好き勝手に生きている」

「父親の顔は見たことが無い」愛情薄い家庭に育ったという設定を背負っていた。

その家庭環境ゆえに、常に他人と距離を置き、シニカルな目線で世の中を見ている。

女性にはかなりモテるのだけれど、「貢がせる」という意識しかない。

だが物語が進むにつれて、徒然亭という家族とは違う、それでもやはり身内としか

言いようの無い濃いつながりの中で、ずっと漂っていた彼の孤独感が薄れてゆき、

見ている者にも幸福感を与えてくれる終わり方になっていた。

「まいご」では彼が本編中では決して直接口にすることの無かった、

自分という存在の不確かさ、本来あるべき家庭や、受けるべき愛情から

確立していくはずの基盤がないという寄る辺ない思いを、素直に吐露している。

一門の兄妹弟子たちはそれぞれにあるけれど、自分だけは守らなあかんもんも、

笑うて欲しい人も何もなく、どこで何をしていても足元がぐらぐらしている、と。

「僕には帰る場所なんて無い。真っ直ぐ立っていられる場所すらない」

静かに語ってはいるけれど最後の言葉はもう叫びのようだ。

恐らく本人も言葉にしても仕方ないことと充分わかっていた言葉。

何をどう言おうと嘆こうとなす術などなく、ただ受け入れなくてはいけないことはある。

彼もそうして受け入れていたはずのことを、思いがけないきっかけで吐き出してしまう。

恐らくそんな状況に一番戸惑っていたのは彼自身のはず。

それでもその言葉を自分の為だけでなく、目の前にいる違う立場で傷を持つ、

初めて出会った一人の男のために、訥々と誠実に言葉を選びながら話す姿が良かった。

彼は兄妹弟子たちの中でも特に師匠の実の息子である小草若(茂山宗彦)のことを、

「愛情を一身に受け、大切に育てられたくせに、二日違いの才能ある兄弟子への

コンプレックスからか、落語の稽古もろくにせず甘えて、すねたように生きている」と

思っており、小草若に対しての苛立ちを隠さない。

しかしこの夜、小草若は四草に

「お前こそ妾の子でかわいそうな境遇だということに甘えている」と言い返す。

この言葉は腹立ち紛れに言い返した感情的な言葉ではあるけれど、

あながち外れてはいない。

四草が愛情深い両親と温かい環境を持たなかったこと、それは痛ましい事実だし、

彼がそのせいで生きていく上での寄る辺無さを感じ続けているのは当然のことだけれど、

それでも今、彼に守るべきものも笑って欲しい人もなく、いるべき場所もわからないと

いうのは、彼自身の生き方の責任でもあるのだから。

彼は不幸な境遇にただ甘えているのではなくて、愛情を受けた経験が無かったが故に、

心を開く術を持たず、その自分の頑なさを境遇のせいにしていた、か

せざるを得なかったというところだろうか。

この夜、二人の兄弟子から贈られた歌と言葉で、自分が知らず知らずのうちに

いるべき場所に立ち、大切な人たちとの関係を紡いでいるということに気づく。

いるべき場所なんて本来曖昧なものだけれど、そう感じさせてくれるものがある、

ということが、人を幸せにしてくれる。

「ちりとてちん」は本当に優しい物語だ。優しすぎると感じるくらいに。

この物語の中で一番歪な感情形成をなされているだろうと想像される、身薄い、

四草という存在に番外編でスポットが当たり、フォローされたことが、

とても嬉しくて、ホッとした。

これは「まいご3兄弟」というドラマに対する客観的な評価というよりも、

「ちりとてちん」という物語に、登場人物に深く耽溺した人間の

思い入れの強さに他ならないのだけれど。

「まいご」は想像していたよりもシリアスではあったけれど、期待通りに楽しく、

温かさと優しさに満ちた物語に仕上がっていたとおもう。

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2008年7月 1日 (火)

ゆっくりと深呼吸

新しい朝が来た 希望の朝だ
喜びに胸を開け 大空あおげ

ものすごく久々にラジオ体操第一の歌を口ずさんでしまって
自分でもその唐突さに驚いた。
子供の頃から数え切れないほど聴いていて耳に馴染みがある歌だが、
口ずさんだのは、久々というより初めてかもしれない。

何故だろう?と考えつつも思い当たっている。
明日から新しい朝が始まるからだ。

転職をした。
だからこの六月は有給休暇を使って、
久しぶりにのんびりとした毎日を過ごさせてもらっていた。
長いと思った休みがあっという間に終わってしまうのは
学生の頃の夏休みで何度も経験済みだったのに、
それでもあまりに速すぎて驚いている。

休みに入る前はあれもこれもしようと考えていたことが
それほど片付いていないところも夏休みの宿題を思い出してしまう。

夏休みになると、私の家のすぐそばの公園では
子供たちを対象にしたラジオ体操が行われていた。
自治会が行っていたイベントだと思うけれど、私たちはカードに
毎日スタンプを押してもらって、最後の日には景品をもらった。
祖母につれられて通っていたので低学年の頃だけだった気がするが、
どうも夏休みといえばラジオ体操、という刷り込みが
私の中で出来てしまっていたらしい。

そんなこんなで連想ゲームのように、なんだかほの寂しい気持ちで
ラジオ体操の歌を歌っていたみたいで、
しかも明日から新しい職場に赴くくせに、なんとなく気が重くて
グダグダと夜更かししているのが、
子供が夏休み最後の日を惜しんでいるのと全く同じであきれる。

まあ、何をどうしたって新しい朝はやってくるので、
覚悟を決めてもう寝ます。
ゆっくりと深呼吸して行って来ます。

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2008年6月23日 (月)

トルキッシュ!

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                                                                                                              トルコでは焼けるような日差しの強さに肌がやけどの様に真っ赤になり、

かなり酷い目にあったのだけど、帰ってみれば日本の湿度の高さに辟易。

勝手なものだと思うけれど、

…間はないのか?と。

滞在期間が短いため、限られた場所にしか行く事が出来なかったが、

カッパドキアの荒涼とした大地に広がる奇岩石群に圧倒されたり、

イスタンブールの、カッパドキアとは対照的な喧騒に巻き込まれたりと、

短いなりに旅を満喫した。

そういえばカッパドキアでの最初の夜に、零時過ぎ頃だったか、

表でバイクのクラクションやら騒ぐ声やらが急に聴こえ始めて、あまりの大音量に

「暴走族か?暴動か?」と怯えたのだが、あとで聞いたところによると

サッカーに勝ったための歓喜の雄たけびだったらしい。

それが収まれば、四時くらいにはコーランがマイクを通して流れ始めるし、

とても安眠できたものではなかった。

トルコはなかなか手強い国でもある。

まだまだ整理できていないままだが、何枚か写真を載せてみる。

光景を切り取ることにばかり必死になるのはつまらないけれど、

記憶に鮮明に残す手助けには、いくばくかの写真はやはり必要だと思い撮影した。

誰かが撮影した写真を見るのはとても好きだ。

たとえば同じ方向を見ていたとしても、相手が本当に見ている物はわからないけれど、

写真を見ると、

その人がその場所で何を見、何を面白いと思い、何を残そうとしているかがわかる。

自分の写真を見ても、実は同じことが言えて、

あの時自分は、こんなものを面白いと思ったんだなと、

意外な思いで写真を見返すことが時々ある。

元来面倒くさがりで、引きこもりがちなタチではあるけれど、

時々旅行に出かけると、外側にも内側にも発見があるものだと、しみじみ思う。

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2008年6月14日 (土)

旅に出るまえに

異国を旅をしている間、私はよくぼんやり考え事をしている。

街や遺跡や様々な場所を巡りながら、その新鮮な光景に感嘆しながらも、

気がつくと心ここにあらずという状態に陥っていることがしばしばある。

滅多に目にすることの出来ない異国にいながら、その感動を満喫するのではなく

自分の内側に沈み込むのは非常にもったいないことではあると思うけれど、

それでも思う存分そんな状態に浸ることに罪悪感を覚えない、またとない機会でもある。

日常生活ではそれほど許されることではない。

とはいえ大抵はそれほど大したことなど考えているわけではないのだけれど。

今日から6日間旅に出る。

行き先はトルコ。

同行の友人と私の二人ともが行ったことのない場所を選んだ。

トルコについてのわずかな知識と、ただひたすらに物思いにふけることが

許される時間に対する期待を抱えて、機上の人となるわけだけれど、

日常から離れることへの不安もある。

今、ニュースでは東北で起きた地震について報じられている。

状況が少しずつしか明らかにならないことに対する不安もある。

ふと思いが飛躍する。

自分が日本を離れている間に、さらに大きな天災が起きたりはしないだろうか?

そういえば「自由と規律」の著者である池田潔氏のエピソードだったと思うが、

(おそらく、という曖昧な記憶で申し訳ない)

彼と彼の兄がイギリスに留学中に関東大震災が起きた。

今ほど情報の伝達が発達していない頃のことで、「日本沈没」などという

大げさな情報までが流れたりもした。

家族の安否など全くわからないまま、不安を抱え肩を寄せ合って日本へ向かう船の中、

兄弟は

「もしも日本について家族が無事であったとしても、大勢の亡くなった方がいるのだから

人前で大きく喜び合うのは止めよう」

と語り合ったのだそうだ。

ささやかだけれど心に残るエピソード。

自分たちの不満や不安を自分ひとりでは抱えきれず、他人のせいにし、

他人を理不尽に傷つける、そんなことが珍しくなく起こる現代社会で、

周りの人たちを慮るというそんなごく当たり前であった気風は見る影もなく薄れている。

そんな社会に生きることで人は不安をさらに増幅し、心を病んでいくのかもしれない。

それにしても池田兄弟の家族は無事だったのだろうか?

ニュースを聞いているとなんだか不安で泣きたくなるような不安定な気持ちになる。

地震の被害がこれ以上広まらないことを心から祈りながら、

日本を離れます。

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2008年6月 1日 (日)

まいご3兄弟

たくさん書きたいことがあったはずなのに、ほやほやと毎日を過ごしているうちに

どんどん時間が過ぎて書く時機を逸してしまう。

これもまさにそんなものの一つなのだけれど、

2007.10~2008.03まで放送されたNHK朝の連続ドラマ「ちりとてちん」の

スピンオフドラマが7月に放送されることになった。

先日その製作発表記者会見があり、タイトルも明らかになったのだが、

製作スタッフが底抜けに楽しんでることを感じる。

なにしろタイトルが「まいご3兄弟」である。

この可愛らしいタイトルになっている3兄弟は以前「徒然亭の人々」で書いた

ドラマのヒロインの兄弟子たちで、たいがいいい大人である。

桂 吉弥、茂山宗彦、加藤虎ノ介の三人が今回の主役なわけだが、

そんな大人な彼らが大人気なく迷子になって、迷い込んだ民家での一晩の出来事が

物語の軸になっているとのこと。

なんだかそんな風に書くとちょっと御伽噺のようだけれど、きっと本編と同じように

笑いの中にも心を打つ物語が描かれているはずだと期待している。

それにしても、

ドラマに限らず映画、舞台、小説などなんでも、その物語を楽しめば楽しむほど、

ラストはどんな風になるのか気になるのと同時に、終わるのが寂しい。

終わったあと、物語の外に取り残されたような寂しい思いが強ければ強いほど、

もう一度その物語の中に身を置きたいという激しい衝動に駆られる。

スピンオフドラマというのはそんな衝動に答えてくれる企画ではあるけれど、

多分そのあとの喪失感はさらに大きいぞ…とちょっと覚悟も必要だったりもする。

そういえば、これは付け足しみたいなものだけれど、

実はNHK大阪放送局での撮影をほんの少しだけ見学してきた。

窓ガラス越しの見学スペースは何十人も集まり、かなりの熱気。

撮影はかなり奥のセットで行われているので、どちらかと言えば、モニター越しの

見学という感じだが、とても楽しそうな3兄弟の様子は伝わってきて、

時折その様子を見て、見学スペースでも笑いが起こったり、と終始和やか。

ただ撮影は結構シリアスなシーンだったので、ちょっと意外な展開にドキドキ。

物語以外のオプションでもなかなか楽しめてお得感のある今回の企画なのでした。

(勝手に楽しんでるだけなんですけどね)

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2008年5月 5日 (月)

700日戦争じゃなかった

一体何に対する挑戦なのか自分でもわからないけれど、

GW真っ只中、殺人的な混雑が予想される梅田の映画館へ出かけた。

相当な覚悟で臨んだ映画が「ぼくたちと駐在さんの700日戦争」だというのだから

能天気で間が抜けている。

この映画は元々はブログに書かれた、実話を基にした小説から生まれたもので、

1970年代、のどかな田舎町でのいたずら好きな高校生たちと、

彼らに真っ向勝負を挑み、公務員にあるまじき大人気ない逆襲をも厭わない

駐在さんとの戦いの日々を、実にバカバカしい能天気さで描いている。

ぼくちゅう『悪戯の定義』
 1.相手に怪我を負わせてはならない
 2.しかけられた相手も笑えなくてはならない
 3.相手が弱者であってはならない
 4.償いができなないものは悪戯ではない

これはブログに掲げられている悪戯の定義なるもので、

バカバカしいはバカバカしいなりに信念があって面白い。

それでも登場人物たちの、とにかく生き生きと楽しそうな様子と、

物語としての深みに欠けるのは覚悟の上だと言わんばかりに、

ひたすらカラっと明るい描かれ方は潔くて中々良いんじゃないかと。

そしてやはり真面目に可笑しい佐々木蔵之介が良いんじゃないかと。

最近ドラマでは、医者とか弁護士とか線の細いイメージの役柄が多くて

食傷気味だったのだが、久々に骨太でインパクトがあり、

そしておバカな蔵之介が見られて良かった。

700日戦争のはずが、映画で描かれたのは始まりから108日間の物語だったので、

もしかしたら続編の予定があるのかもしれないが、全く同じ趣で作るなら

二作目はちょっと苦しい気がしなくもない。

ところで、私個人のサプライズポイントは高校教師役のTEAM NACSリーダー森崎博之。

リーダーの声は相変わらず大音量でした…。

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2008年4月 5日 (土)

一気に春になる

ぼんやりとしすぎていたのかもしれないのだけれど、

気持ちも衣替えも中途半端なまま、気がつくと一気に春になっていた。

よくよく見れば家の近くにある桜は満開だし、父が心待ちにしていた野球も開幕していた。

ずっと以前はロッテファンだった父だが何故だか今は阪神ファンだ。

ヒートアップするタイプではないので父がテレビを見ている様子だけでは、

勝っているのか負けているのか全くわからない。

なので気になって時々一緒に観戦して、結局私のほうが熱くなったりもするのだけれど、

この間ちらりと阪神ー広島戦を見て驚いてしまった。

別にタイガースが連勝していたからではなくて、

今年広島から移籍してきた新井選手が激しいブーイングを受けていたからだ。

FA宣言をするという記者会見の席で、新井が泣いていたという記憶はあるけれど、

詳しい経緯は知らない。

恐らくそうせざるを得ないほどの事情と経緯があるのだとは思うけれど、

そのあまりの激しさに驚いた。

ずっと以前に通っていた美容室には相当な阪神ファンの美容師さんがいて、

彼と話しているといつの間にかタイガースの話になって、

いつもその熱さに巻き込まれてしまう。

そういえば彼は

「一度チームにいた選手はどこに移ってもずっと応援する」と言っていた。

チームを熱心に応援することで、個々の選手に対して「身内」と言うような情がわく、

そういう気持ちはすごくわかるし、私もそんなものだと思っていた。

だから新井に対する容赦ないブーイングにはやりきれない気持ちが残る。

もちろん様々な事情があって、ファンはファンなりに選手を愛した故のことだろうし、

金本にはなかった新井個人に対する納得できない思いがきっとあるのだとおもう。

だから別に応援しなくたってかまわない。

彼を打ち取ったピッチャーを賞賛して大喜びしたって良い。

でも彼は彼なりに複雑な思いを抱え、覚悟を決めてバッターボックスに立っている。

その真摯な姿にやっぱりブーイングはないと思う。

ブーイングしているファンの姿を見るのも辛い。彼らだって辛いはずだと。

もちろんカープファン全員がブーイングをしているわけではないし、

むしろそのことに胸を痛めているファンだっているはずだと思うのだけど。

とりあえず春だし、始まったばかりだし、色んな思いを内包して、すべてはこれから。

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2008年3月 9日 (日)

徒然亭の人々

「徒然」という言葉が昔から好きだった。

なんとなく手持ち無沙汰で、ほの寂しい感じ。

自分がそんな状態にあることが良くあるからなのかもしれない。

だから「徒然亭」という名前を聞いて、良い名前だなと思ったのが、

NHKの朝の連続ドラマ「ちりとてちん」を見た最初の感想。

「ちりとてちん」は何事にも自信が持てない、将来の道に迷うヒロインが、

大阪で上方落語と出会い、女性の咄家としての道を歩んでいく物語で、

彼女が出会うのが徒然亭草若とその一門。

彼らの一人一人がとても個性的で、それぞれのドラマを持っている。

落語の特性である人や古い時代の持つ独特の温かみが、物語の随所にちりばめられ

15分という時間が、短いけれどとても濃密で、思わず涙してしまうことも多い。

そしてもう一つ落語に関して言えば、

物語の中でたくさんの落語が出てくることで、落語の世界に対する新たな興味が

わいて、さわりだけで出てくる落語も随分楽しめる。

一番弟子役が本職が咄家の桂吉弥であることで、一門の落語の実力を

引き上げていることも大きい。

この五人の兄弟妹弟子たちの中で四番弟子の四草役が加藤虎ノ介なのだが、

この人は実は以前は別の名前で、MOTHERという劇団の若手俳優だった人だ。

初めて彼を舞台で観たのは十年位前で、

今よりずっと若くてややふっくらしているのに、かなりとがっていたという印象が強い。

五年ぶりくらいに見る彼は相変わらず目が鋭くて、2002年の劇団解散以来

一度も彼を見ていなかったし、思い出すことすらなかった私をして、

随分痩せて輪郭が変わっていたにもかかわらず、テレビの画面を見た瞬間に

「彼だ!」と思い出させるほどに変わらない。

彼を見つけたとき、なんだろうか?懐かしさもあったけれど、とにかく嬉しかった。

私たちが彼を見ることがなかった長い時間も彼は地道に活動を続け、

NHKの朝ドラにキャスティングされるまでになったのだということに、

ファンではなかったけれど何年も舞台を見続けてきた者としての感慨があった。

そして彼は四草という、無表情で口が悪くて常にクールな、それでいて底に

熱い思いを持つ男をとても魅力的に演じていた。

そして彼の素人ながら見事な落語を聞けば、彼がこの役を演じるために

どれほどの努力をしたかという事がわかる。

伝統芸能である落語は、どれほどの天賦の才があろうと、器用であろうと、

一朝一夕でプロとしての実力を得ることは不可能だと思う。

たとえ上手に演じることは出来たとしても。

もちろん彼の落語はプロのものではない。

それでもその演じる細やかさや独特のリズムはやはり見事といいたい。

そしてこれは彼以外の弟子たちにも当てはまる。

彼らの陰の壮絶な努力があるからこそ、面白く温かく優しい物語が

ドラマとしての深みを増している。

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2008年2月24日 (日)

死神の精度

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伊坂 幸太郎

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伊坂幸太郎の「死神の精度」が文庫本になっているのを見つけ、早速手に入れる。
彼の小説は続々と映像化されているが、
この「死神の精度」も金城武主演で映画化され、3月に公開されるらしい。
映画の宣伝が本の帯でかけられていた。
金城武はミュージックをこよなく愛し、人間の世界にいるときは
必ず雨に降られる死神の役だ。
ミュージックというキーワードが伊坂幸太郎らしい。
精度なんてものではない、適当な調査のみで、その対象の死を
「可」か「見送り」か決定する死神が、実に死神らしくない。
死神に持たれているごく一般的なイメージとは合わないのだが、
そのなんとも言えず身近なたたずまいが、
むしろ、多少変わった性格と特性を持った人間のように思えてしまう。
それが「床屋が髪を救わないように私も彼女を救わない」という言葉に表されるように
実に淡々とした仕事ぶりでありながら、徹底した非情さを感じない理由でもある。
物語の面白さは登場人物の魅力に左右される。
彼がとても魅力的な死神であることは間違いない。

それにしても
何故、表紙の写真がコンドルズの近藤良平(疾走する男たちのエルドラド)なんだろう?
木の上で近藤が傘を放り投げているのを、下からあおるように
写した写真で、彼の独特の飄々とした風貌は、
映画の彼よりずっと死神らしくて、ちょっと良い感じの表紙だ。
まあ、彼では映画にはならないだろうな。
私は多分観るけれど。

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2008年2月16日 (土)

アカデミーの夜

日本アカデミー賞というのはその選考方法の問題なのか、

関係機関の問題なのかわからないが、どうもその偏った結果に釈然としない

思いが残ることが多々あって、賞としての評価は私の中ではあまり高くないのだけれど、

イベントとしてはとても面白いと思う。

普段テレビではあまり見る機会のない映画俳優や監督などが一堂に会して

インタビューを受ける姿を見るのが楽しみで、毎年といっていいほど見ている。

ただインタビューの内容はあまりに形式的かつ画一的で、

引き出される内容には全く興味はわかない。

ただその姿の新鮮さを楽しんでいる。

しかし今年は少しだけ興奮度が高かった。

「それでもボクはやってない」の主演男優として、加瀬亮が優秀男優賞に

名を連ねていたからだ。

彼ををこの舞台で、しかも主演男優としてみる日が来るとは思わなかった。

この映画の主役が決まった時ですら随分驚いて興奮したものだった(加瀬君と周防監督

彼はとにかく出演作が多いので、全てを網羅するのは結構大変な作業になるが、

メインの役はそれほど多くない。

「それボク」はとても丹念に調べ、作り上げられた映画だという気がしたし、

誰にでも起こりうる問題としての恐ろしさが実にリアルで考えさせられもした。

とても良質の映画だと思うが、これから先の彼のキャリアの中で、

これが突出したものになるとは感じなかった。

それはこれからの彼への期待感でもある。

ただ、一つだけ昨夜のインタビューで印象に残った周防監督の言葉。

オーディションで加瀬を見た時この人しかいない、と思われたそうですね?

と問われたとき、「微妙に違いますね」と前置きをして

「あっ、主人公が来た、と思った。この人しかいない、じゃなく、主人公が来ちゃった

という感じでした」

もちろん本心でおっしゃっているのだろうと思うが、ただそれだけではなく、

監督という仕事はこんな風な言葉で、役者との心を繋いでいくものなのだな、

深く感じ入った。

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2008年2月11日 (月)

桜の花、舞い上がる道を

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昨日エレカシの記事をあげたついで、というわけではないのだけれど、

3月5日発売のニューシングル「桜の花、舞い上がる道を」のブログパーツが

エレファントカシマシオフィシャルHPにあって、シングル曲のビデオクリップの流れる前に

宮本浩次がコメントしているのがちょっと面白かったので貼り付けてみた。

「好きか嫌いかで言えば桜よりは梅の方が激渋」だとか何とか、

相変わらず自由な感じで話しつつ、桜という花に生きるということを重ねあわせる、

という至極ありがちでシンプルなテーマではあるけれども、きっとそれを彼らしい

音で表現してくれるんじゃないか、と期待させるような、懸命で誠実な口調で語っている。

いつもの身振り手振りを交えつつ。

期間限定ではありますが、しばらくブログに貼り付けて楽しむことにします。

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2008年2月10日 (日)

リッスントゥーザミュージック

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何故音楽を聴いているんだろうと考えることがある。

慰められようとしているのか、時間つぶしなのか、

ただ音楽を聴いている場合もあるし、音楽を通じて人を感じようとしていることもある。

全く理由はわからないのだけれど、

私は「聴きたい」と思うと、一曲だけをずっとリピートする癖があって、

好きなミュージシャンの楽曲でもまんべんなく聴かず、かなり偏る。

極端な例では、ギタリスト村冶佳織のアルバム「カヴァティーナ」は

表題曲の「カヴァティーナ」しかほぼ聴かない。

その代わり、10回でも20回でも繰り返し聴いたりする。

だから「音楽」という媒体を通しての何かを求めているというより、

やはりその音そのものに何かを求めているのだろうとは思う。

ところで、今年に入って一番聴いているのはエレファントカシマシの最新アルバム

「Starting Over」

エレカシのアルバムをじっくり聴くのはかなり久しぶりのことなので、ちょっと驚いた。

昔はもっと激しく攻撃的に、全身全霊をこめて叫び、問いかけ、投げ掛けるような

そんなイメージがあった。

私が知らないもっと以前には相当暴れて毒づいていたらしい。

もちろんそんなものばかりではなく、静かに語りかけるようなものも以前からあったし、

一概には変わったとはいえないかもしれない。

でも以前よりもずっと近いところで語りかけられている気がするのはなぜだろう。

10代から30代にかけてのそれぞれの時間でのそれぞれの思いが、

とても優しく繊細にかつ力強く語られている。

わかりやすい言葉で書かれているけれど本当のところはわかりにくい、

それが私にとってエレカシ宮本の魅力なのだけれど、テレビ番組などで表れる

彼の話の難解さは尋常ではない。

果たして相手の話を聞いているのか?と疑問に思われるほど、

問いかけにたいする答えがなく、自分の言いたいことをマシンガンのように話し続ける。

でもそれは自分の主張を無理やり通そうとしている押しの強さとは対極で、

相手にできるだけきちん伝えたいという思いが常に前のめりなので、

言葉が思いについていこうと、整理されないまま次々に投げかけられ、

本人にも収拾不可能になっていたりするだけに見える。

それは弱さでもある。

そしてその弱さが結構好きだったりする。

(媒体やインタビュアーによってはかなり落ち着いて整然とした話し方をする場合も

往々にしてあるので、リラックスしていると結構出来る人なんだね~という

意外な驚きを与えられてしまうことがあるのが面白いのだけど。)

今のヘビーローテーションは「リッスントゥーザミュージック」

でも「さよならパーティー」もとてもいい。

彼の壊れるようなファルセットは賛否両論あるみたいだけれど、

私は彼の声はかなり魅力的だと思う。

振り絞るような声も、突き抜けるような伸びやかな声も、

彼の攻撃性と内省的な側面との両極性の表れなのかもしれない。

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2008年2月 7日 (木)

思い立ったが吉日

かなり久々の更新なので、記事のあげ方すら忘れそうな勢いだ。

一体何ヶ月書いていないのかわからないくらいだけれど、

その間なにをしていたかというと、特に何もしていない。

あえて言うならmixiで日記を書いたりしていたせいでもあるかもしれないが、

mixiとこの場所では書く内容も書き方も違うので、それだけが理由でもない。

だから今日、急にまた始めようと思った理由も自分でもよくわからない。

でもあまり堅苦しく考えず、マイペースにやっていこうかなと思っている。

こんなに長く留守をしていたのに、定期的に覗きに来てくださった方もいらっしゃるのが、

申し訳なくもあり、ありがたくもある。

こんな私ですが、気長にお付き合い頂けると嬉しいです。

とりあえずは書きかけて放り出していたものの整理から始めることにします。

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2007年3月 4日 (日)

春宵一刻値千金

夕方から母と買い物に出かけた。

収穫はほとんどなかったが、目的の場所を見終わったらすっかり夜になっていた。

元町から車を駐車していた三宮まで、一駅分ふらりふらりと歩く。

今日は四月上旬くらいの暖かさで風も心地よく、夜とはいっても歩くのにちょうどいい。

春の宵のそぞろ歩きは、何とはなしに幸せな気持ちになるものだとしみじみ思う。

最近はなんだか良くない日々が続いている。

職場ではごたごたが収まらず、同僚の退職が決まり、悪い空気が払拭できない。

私にもPCが壊れたのに象徴されるような、小さなトラブルが続いていたのだが、

昨日は長く付き合っている友人と気持ちがうまくかみ合わず、悲しい思いをした。

どれほど長く付き合っていても、こんな風に驚くほどあっさりと壊れることもあるのだ。

それは思ってもいなかった出来事で、でも人との関係ではありがちな出来事だ。

どうにもならないことは どうにもならないままに やはりかなしい。

それでも気持ちの良い夜の道を、母となんでもない話をしながら歩いていると、

悲しいけれど、凝り固まった感情が少しだけ解けるような気持ちになる。

ほどけた分だけ我慢していたのに泣きたくなってしまったりもするのだけれど。

悲しい時はやはり空を見上げてしまったりするんだなぁと、歌の歌詞を思い出して

ちょっと可笑しい。

どうしようもなく遠いところまで視線をおくり、時間稼ぎをしているみたいな気もする。

そんな夜。

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2007年2月24日 (土)

脱PC生活

ある日唐突にPCが壊れてしまった。

なるほどそういう性質のものではあるだろうと納得してはいるのだけれど、

その唐突さに生活がついていかず、不便で物足りない毎日。

先日もラジオで流れた曲名が気になって、知りたいのだけれどすぐに調べられない

という歯がゆい思いをした。

それでもなくなってみて、あらためて感じることもある。

二週間後には帰ってくる予定なので、またゆっくり日記を上げようと思うけれど、

その時には、今までとは意識が少し変わっているかもしれないな、と思っている。

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2007年2月 6日 (火)

村上春樹とダンキンドーナツ

Vfsh0085_1私は読んだ本の食べ物の話ばかりしている…。

                      

                                                                                         

4062749041 ダンス・ダンス・ダンス〈上〉
村上 春樹
講談社 2004-10

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高校生の頃には村上春樹の小説を随分読んだが、 彼の小説を読むと、

決まってお腹が空いた。 登場人物がやたらに食べたり飲んだりしているのだが、

本当に美味しそうで、特にビール好きにはたまらない記述が多かった。

ビールには無関係の年頃なので(今でも殆ど飲めないけれど…)私の記憶に強く

残ったのはパスタとサンドウィッチとドーナツ。

実はその中で今でも気になっていることがある。

ダンキンドーナツだ。

確か「ダンス・ダンス・ダンス」だったと思うけれど、主人公が何度もダンキンドーナツに

通うシーンが出てきた。 ダンキンドーナツはアメリカから来たファーストフード店だが、

何故だかわからないけれど彼は頑なに通っている。

美味しいんだかそうでもないんだか、全く説明はないけれどそれでも通う。

彼がそこまで通うダンキンドーナツに私も一度いってみたいと思うけれど、

私は本物の店舗を見たことがない。

先日職場の同僚とダンキンドーナツの話になった。 彼女も村上春樹の小説で

記憶していたそうなのだが、 見たことがないのは関西に店舗がないせいなのか?

などと、二人で話した。

「是非一度行ってみたい!」と私が熱弁をふるったら、その彼女が写真の

ダンキンドーナツバッグをくれた。 アメリカンショップのようなところで見つけたそうだ。

使い道はそれほどなさそうなのだけど、とても嬉しい。

電車通勤にはちょっとむかない派手さで、職場に持っていって彼女に、

私の喜び度を伝えられないのは残念だ。                                                          

「ダンス・ダンス・ダンス」で心に残るシーンが一つあった。主人公の車の中で、

彼と深く関わることになった、年齢よりもずっと大人びていて生意気な少女が、

自分の力では如何ともし難い状況に、耐え切れずに静かに泣く。

彼はただ胸を貸してその姿を見守っている。

そんな場面だ。

後年ロバート・B・パーカーの「初秋」に、その状況も感情の流れも同じような

場面があるのを知って、がっかりしてしまったのだけれど、

でも確かにそれは心を打つ場面だった。

子供が不条理に傷つけられている、そんな状況には締め付けられるような痛みを

感じざるを得ないから。

そしてそんなときには誰かにただ胸を貸してあげて欲しいと思うから。

たとえそれが問題の解決の一助とはならないにしても。

ところでダンキンドーナツはアメリカでNO.1のドーナツショップらしいが、 日本では

1998年に撤退して、もう店舗はないらしい。

そして驚いたことに、アメリカではミスタードーナツはダンキンドーナツに

吸収合併されたという話。

ミスタードーナツであふれかえった日本で暮らしていると、何だか信じられないような

不思議な気がする。

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2007年2月 5日 (月)

靴に恋して

B0007YVW60 靴に恋して
ラモン・サラサール アントニア・サン・ファン ナイワ・ニムリ
エイベックス・マーケティング・コミュニケーションズ 2005-05-25

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神戸映画サークルの例会で「靴に恋して」(2002年 スペイン)を観た。

私はサークル会員ではなくてチケットを持つ友人について行っただけなので、

タイトルしか知らず、内容については全くの白紙状態。

スペイン映画であることすら知らなかった。

私が今まで観たいくつかのスペイン映画と同じように幾人もの多種多様な年代の

女性が出てくる。彼女たちには初めににシンプルな説明がつく。

黄色い靴を履く女 アニータ

偏平足の女 アデラ

小さな靴を履く女 イザベル

盗んだ靴を履く女 レイレ

スリッパを履く女 マリカルメン

それは単なる説明ではなく彼女たちの今を端的に示す、重要なキーワードでもある。

彼女たちはそれぞれの場所で、それぞれの事情を抱えながら、

それぞれの靴を履いて生活している。

それは靴に恋するなどと、やや甘い幻想を抱かせるような言葉で表現するには、

あまりに生々しく、そして苦い。

しかしバラバラな点で語られていた彼女たちの人生が交錯するとき、

彼女たちは変わり始める。新しい靴を履いて歩き出す自分に思いを馳せる。

履きなれた靴を脱いで、新しい靴を履くのは楽しみだけれど怖い。

果たしてこの靴は自分の足に合うだろうか。自分の今の姿に似合うだろうか。

私もいつの間にか彼女たちと一緒に考えていた。

自分に格別似合うと思っているわけでも、それほど気に入っているわけでもない、

ただ履きなれているというだけの、今の靴を脱ぎ捨てる事が出来るだろうかと。

彼女たちは一年後、新しい靴を履いて立っている。

それは全く今までと違う、新たなものである場合も、、新しいものに見えてその実、

以前と代わり映えしないものであったりする場合もあるのだろうけれど、

履き替えてみようと足を踏み入れたその瞬間に、確かにその歩き方は

全く違うものになっているのだろう。

そんな風に信じられる、希望に満ちたラストシーンが良い。

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2007年1月16日 (火)

ミント・ジュレップの誘惑

4101339112 きらきらひかる
江國 香織
新潮社 1994-05


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アイリッシュウイスキー、ピーチフィズ、キュンメル入りのジン、ミントジュレップ、

冷たいビール、シャンパン、オレンジの匂いの炭酸酒、キュラソーとトニックウォーター。

江國香織の小説「きらきらひかる」には、いくつものお酒の名前が次々に現れる。

そして登場人物たちは実に美味しそうにそれらを飲んでいるので、

読み進むほどに実際に飲んでみたい衝動が強くなる。

大学生の頃に初めて読んだ時、私は聞いたことのないキュンメルだとか

キュラソーだとかの単語が出てくるたびに、その言葉の響きが楽しくてワクワクした。

とりわけ心惹かれたのが ミントジュレップ

可愛らしくて爽やかな印象の名前のこのカクテルは、本書の中では

かすかに甘くすっきりとして強い、と説明されている。

レシピを調べてみるとそれはますますはっきりとわかる。                           

★ミントジュレップのレシピ★

コリンズグラスにミントの葉と砂糖を入れ、よくつぶす。

クラッシュドアイスをいっぱいに詰め、バーボン・ウイスキーを注ぎ、グラスの表面に

霜が付くくらいよくかき混ぜる。 最後にミントの葉を飾る。

ミントジュレップは、アメリカの三冠の第1冠としてケンタッキー州にある

チャーチルダウンズ競馬場で行われる、ケンタッキーダービーの公認ドリンクとして、

19世紀から愛されてきたカクテルなのだそうだ。

そんなエピソードにもますます心惹かれるのだが、とても大きな障害があった。

残念で残念で仕方がないのだけれど、私はとてつもなくアルコールに弱い。

どくどくと音を立てて全身を激しく血液が流れ始め、赤くなる。顔も、体も。

ちょっと笑ってしまうほどに。

周りが美味しそうにアルコールをどんどん飲んでいる時、私はせいぜい

ジュースだかお酒だかわからない、お茶を濁したようなカクテルを、

ちびりちびりと口にしている。

先日イタリアンのお店で飲んだロゼのシャンパンがとても美味しくて、一杯飲み干し、

調子に乗って白ワインも少し飲んでいたら、急に聞こえてくる音が遠くなって

体が崩れ落ちそうな感覚を感じて驚いてしまった。

それが酔っていたのだか体調不良だったのだか、いまだによくわからない。

でもとにかく強いお酒は無理だ。

例え自分の身の丈に合わないものであったとしても、

その言葉がとてつもなく魅力的に感じることに変わりない。

江國香織の小説には、楽しくて可愛い物にあふれた素敵な雑貨屋さんに

迷い込んだときのような、高揚感を与えてくれる言葉がそこかしこに隠れている。

本書のあとがきで作者は「ごく基本的な恋愛小説を書こうと思いました。」

と記していた。

「ごく基本的」

それをどのように定義してよいかわからないが、

この物語は私の持つ「ごく基本的」のイメージとは随分違う、ゲイの夫と

情緒不安定でアルコールを飲み続ける妻、そして夫の恋人を中心とした恋愛小説だ。

その設定だけを考えれば想像してしまう淀みが、この物語には全く感じられないのは

一体何故なのだろう。決して綺麗ごとばかりが書かれているわけではないのに、

不思議なくらい静かで澄んだ空気に満ちている。

「きらきらひかる」という美しいタイトル通り、きらきらとした宝石のような

言葉たちのせいなのかも知れないとも思う。

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2007年1月15日 (月)

片思い

Vfsh0075 友人の愛娘Sちゃんに会いに行く。

会うたびにどんどん赤ちゃんから女の子に変わっていく

Sちゃんは 1歳8ヶ月。

とっても甘えたで人見知りなので、ママにべったりだ。

私ともう一人の友人Mにご機嫌におもちゃを次々と

見せてくれたり、ボールで遊んでくれたり

していたかと思えば、 ママがちょっと飲み物を準備しに

階下へ降りると、 途端に不安になってしまうらしい。

「ママ、ママ、」と探し始めるSちゃんに

「ママ、どこかなぁ。すぐ帰ってくるから一緒に待ってようね~」

などとなだめる二人の大人。

とうとうママを探しておいおい泣き出す彼女を、おろおろとあやしていると、

ママのいない不安に耐えられなくなったのか、 「もう誰でも良い!!」という感じで

抱きついてきたので、 身も世もなく泣き崩れる彼女を抱っこする。

小さくてふわふわと柔らかいSちゃんを抱っこしていると

とてつもなく温かい気持ちになる。

ところがママが戻った瞬間、彼女はきゅっとしがみついていた手を離し、

体をよじってママ~と叫ぶ。

子供への片思いはあまりに切ない…。

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2007年1月 2日 (火)

はなしか稼業

4582763030 はなしか稼業
三遊亭 円之助
平凡社 1999-09

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落語は積極的に聞くわけではないが、人や古い時代の持つ独特の温かみを感じる、

そんな話は大好きで、テレビで落語の番組があると聞き入ってしまうことがある。

最近は少なくなったが、お正月にはよくテレビで寄席の番組を家族で見ていた。

そういうわけでお正月らしく噺家さんのお話。

三代目三遊亭円之助は昭和31年、三代目三遊亭小円朝に入門、朝三となる。

昭和40年に三遊亭円之助を襲名し、真打昇進。

彼の唯一のエッセイ集である本書は昭和55年に脳溢血で倒れた後、

リハビリの一環で書かれたものだから、恐らく震える手で時間を掛けて、

たどたどしく書かれたに違いないのだが、そんなことを全く感じさせない、

リズム感のある軽やかな文章で綴られている。売れない頃の旅回り、

そんな中で知る師匠方の新たな一面や、さりげなく心温まるエピソード。

お金がないくせにお酒が好きで、お酒の上の失敗にも事欠かない。

貧乏が故の苦労話もふと笑みがこぼれてしまうような話に転じてしまう。

そしてなんといっても、破天荒であったり、情けなかったり、変人であったりする

登場人物たちに対する、常に温かい彼の目線が心地良い。

本書には解説が載せられていて、これを書いたのも落語家であるが、

彼は本書について、円之助は落語とどのように関わり合っていたのか、人生とどう

関わりあっていたのか、自分の恥部を含めた己のコンプレックス、己の

社会とのリアクションを、一つも書いていない。落語家ならば語るべきだった。

と述べている。

確かに本書には全くといっていいほど、自分自身のことについて述べられていない。

エピソードの登場人物として書かれているのみで内面的なことには触れられない。

彼が脳溢血で倒れ、リハビリを始めることについても最後の一篇で語られるが、

それとても彼自身のことが中心ではなく、その際に親身になってくれた林家三平師匠に

ついて言及するところに中心を据えている。

その徹底した客観性は意識しなければ生まれないものだ。

彼が脳溢血に倒れ体の自由を失ったとき、落語家としての再帰について

楽観的であったとは思わない。

突然襲った雷の一撃のような病に、彼は恐らくこれまでのこと、これからの事含め

人生について深く深く思いを寄せたはずだ。

だからいくらでも書き得たのだ。彼の筆力を持ってすれば、全く違ったトーンの

ものになるにせよ、見事な物語になっただろうと思う。

けれども彼は全くそんな気配を微塵も感じさせない軽やかさで、

温かく面白おかしいエッセイを書いた。

私はそこに彼の噺家としての断固たる信念を感じて胸を打たれる。

「はなしか稼業」

タイトルがそれを物語っている。

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2007年1月 1日 (月)

新しい朝

新しい年が明けた朝はいつも神聖な気持ちになって、新たな決意をしたりする。

大晦日に夜更かしをして、少し遅めの朝。

大抵綺麗に晴れ上がっていて、明るい玄関に年賀状が届いている。

家族でお雑煮と御節を前に改まった挨拶をし、いつもよりゆっくり流れる時間がいい。

この日のためにあのせわしない年末の日々があったのかと思う。

一年の中でも特に大好きな朝。

それなのに夜になるとすっかりその新鮮さは失われて、

「お正月休みも後何日…」

などと指を折って数え、がっかりしたりする。                             

そんな不届きもののブログではありますが、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

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2006年12月31日 (日)

ご挨拶

五月の、何の予定もなかったぽっかり空いたお休みの日、

特にどうしようという目的もなく思い立って始めたブログ。

始めたはいいけれど何をどんな風に書いていいか、悩みながら常に手探り。

それでも感じていることを拙いながらも言葉にすることで、

漠然としていた感情を自分なりに整理し、振り返ることも出来た。

言葉で表現することの楽しさと難しさを改めて感じることにもなった。                

生来の怠け者で更新頻度も低かったけれど、それでも頻繁に見に来てくださる方、

そして時折コメントくださる方、そんな方々がいらしてくださったので、

独りよがりで始めたブログも緊張感を失わず続けることが出来ました。

本当にありがとうございました。

来年も細々とではありますが続けていきたいと思っています。

どうぞよろしくお願いいたします。

もうすぐ除夜の鐘が聴こえます。

皆様どうぞ良いお年をお迎えください。

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2006年12月25日 (月)

追われる

Vfsh0062 せっかくの平日休みに、年賀状書きに

追われている。

どうして毎年のことなのに、いつもいつも

ギリギリになってしまうんだろう?

元旦には必ず着くように、暇な時間をこまめに

見つけて頑張ります。

ああ、もう出かける時間が来る…。

こんなことしている間に書いたらいいのに…。

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2006年12月18日 (月)

鼻のこびと

4924330485 鼻のこびと
ヴィルヘルム ハウフ Wilhelm Hauff Lisbeth Zwerger
太平社 1999-06

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リスベート・ツヴェルガーの絵が好きでこの絵本を購入した。

彼女はウィーン在住の国際的評価の高い絵本画家だが、日本でも人気が高い。

原画展が2002年に京都の駅ビルで開催されたときも、随分盛況だった。

彼女の絵はとても好きなのだが、実は私は彼女の描く人間の目が少し怖い。

絵本とはいえ可愛らしいだけの絵では決してない。

それでも彼女の絵は繊細でとても優しいと思う。

この「鼻のこびと」では主人公の少年ヤーコプが魔女に姿を変えられ、

両手に余るほどの太くて長い鼻、首がなく肩に頭がくっつけられている。

滑稽ではあるけれどなんともいえない可愛らしさで、その派手ではないけれど

鮮やかな赤の色使いが印象的だ。

異形の者と言っていいのだろうか。

絵本には人間以外の不可思議なものが数多く出てくるが、彼女の描く

そんな彼らはほのぼのとした温かみとよるべない哀しみをたたえている。

その温かさのせいだろうか。読む側の私たちは、その哀しみを

異形であるが故のものではなく、私たちと同じ哀しみとして感じることが出来る。

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2006年12月17日 (日)

空の魅惑

Vfsh0052_2 神戸ルミナリエは毎年12月に開催され、

二週間ほどの間、元町の旧居留地から

三宮の市役所の横にある東遊園地までの道が、

光の装飾で彩られる。

あまりに近くに住んでいるので、いつでも

行けるとも思うし、観光客のごった返す、

会場までの迂回路を、警備員に誘導されて

延々歩かされるというようなわずらわしさが嫌

ということもあり、12年も開催されているのに数えるほどしか行ったことがない。

今年は映画を観に行った帰りに、終着点の東遊園地にVfsh0054_1 ふらりと立ち寄ってみた。

人ごみの中、条件反射で写真を写す。  

大震災の犠牲者の鎮魂の意を込め、都市の

復興・再生への夢と希望を託し開催された

祭典ではあるが、普段はそんなことを

すっかり忘れてしまっている自分に驚く。

それでも闇の中に浮かび上がる華々しい光の壁に

囲まれていると、日常から逸脱した空間の中で

なんとなく静かな気持ちになる。

会場はとんでもない人波で、静かなんて荘厳な雰囲気は かけらもないのだけれど。

ルミナリエにはその年毎にテーマがあって、今年のテーマは「空の魅惑」だそうです。

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2006年12月 5日 (火)

元気です

「お元気ですか?」と語りかけられて驚いた。

まさか会えるとは思わなかったからだ。現在のカクスコの6人に。

2002年1月に解散した劇団カクスコのDVDのセット「お元気ですか?」が、

ファンの要望に答える形で発売されることになったと、以前の記事にも書いた。

カクスコ帰る 「お元気ですか?」

けれど私は、以前の舞台の録画をそのままDVDにしただけのものだと思っていて、

何故だかカクスコのメンバーが再集結してコメントを入れるという可能性を

全く考えていなかった。

昔のVTRに現在の出演者が出てきて、その内容やその頃の事について

素で話をするというのは、良くあることだが、彼らの場合は違っている。

きちんと構成されているのだ。会話も動きも。

あの舞台で見せてくれた、決まりきった流れではあるけれど、馬鹿馬鹿しくて

情けなくてとてつもなく温かい、そんな彼らの独特の空間がそこにあった。

三枚組みのDVDそれぞれに短い時間ではあるが、彼らが現れて、今の「カクスコ」を

見せてくれた。あろう事かアカペラまで披露してくれたのだから、これはもう

カクスコの2006年の新作をちょっぴり見せてもらったようなものだ。

カクスコ帰る 「お元気ですか?」の記事で私は

「喪失感は保存映像というような代替品で埋められるものではないけれど…」

という書き方をしていた。

私たちがDVDを購入するという形で働きかけることが「お元気ですか?」という、

彼らへの語り掛けになるのではないかとも。

でも彼らは今の姿で今のカクスコを見せて語りかけてくれた。

「お元気ですか?」と。

「元気です」と思わず素直に答えたくなるような温かさで。

いや、決して元気とばかりはいえない日々だけれど、本当はこの間も色々あって…。

でもやはり「元気です」と答えたくなる。

「バカですよ~カクスコは。見てる人にバカがうつっちゃうんじゃないの?」

そんな風にいわれて笑いながらもちょっと涙ぐみそうになる。

いつかまた。

そんな言葉が素直に浮かんだ。

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2006年12月 3日 (日)

BOOKER LITTLE 

B0002Q2KI2 ブッカー・リトル
ブッカー・リトル トミー・フラナガン スコット・ラファロ
エムアンドアイカンパニー 2004-09-15

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BOOKER LITTLE というアルバムが手元にある。

大学生の頃に買ったという事も、買った店まで覚えているのに、

何故買おうと思ったのか、理由がどうしても思い出せない。

しかもそれほど聴きこんだ記憶もない。

このアルバムはそのタイトルどおりブッカー・リトルというトランペット奏者の

唯一のワンホーンアルバムになる。

随分久しぶりにじっくりと聞いてみると、何故だか気持ちにしっくり来るのだ、これが。

トランペットの音は特に好きなわけではなかったのだが、自分の中のイメージより、

ずっと繊細で哀切な響きだった。

そしてなんと言っても他のベースやピアノなどの音とのバランスが非常に良くて

全く耳障りな音がない。だから聴き心地がとてもいい。

ブッカー・リトルはジャズミュージシャンには決して珍しいことではないのだが、

その天才的な演奏で将来を嘱望されながら、23歳という若さで亡くなってしまった人だ。

このアルバムで共演している同じく天才といわれたベーシストのスコット・ラファロも

25歳で亡くなっており、この二人の共演はこのアルバムが唯一のものになる。

だからその奇跡的出会いを評して、伝説のアルバムと言われているらしい。

天才とか夭折とかいう言葉には、その価値を無条件に底上げしてしまうような力がある。

ジャズの知識のない私はそんな解説を読めば、きっと技術的に素晴らしい演奏

なんだろうと素直に信じるし、実際に聴いてもそれが天才的なのか

そうではないのかは全く判断がつかない。

でも物の価値ってそんな風に決められていることが多分にあるのだと思う。

だから他者の評価や解説なしに価値を断言するのは、結構難しい。

でも好きか嫌いかだけはわかる。

BOOKER LITTLE 私は好きでした。

買った頃よりも、今の方がずっと気持ちに響く気がする。

それにしても、出会いが奇跡的なのは天才に限ったことではなくて、

凡人の私も、何故出会ったのか?何故出会わなかったのか?という

そんな不思議の中で日々生きているのだと思うのだけれど、

伝説にならないことは間違いない。

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走る月

12月は何故だかわからないけれど特別な感じがしてワクワクする。

仕事も付き合いも俄かに込み合ってくるし、クリスマスだったり大晦日だったり

その後のお正月だったりに向けて街全体が賑やかに活気付いてしまうので、

思わずその熱気に乗せられてしまうだけで、実際は心身ともに

結構疲弊していたりするのだけれど。

そして私は年末年始はテレビっ子の名に恥じない、かなりのテレビフル稼働ぶりで、

録り溜めた映画を見たり、普段はないスペシャル番組を見てみたり。

大晦日のスペシャル番組といえば、やはり何かと話題になるのが紅白歌合戦だろうか。

最近は視聴率の低下が著しいようで、裏番組とのせめぎあいも話題の一つだが、

私も普段は特別思い入れがある番組ではない。でも昨年は気合を入れて見た。

ええ、もちろんコブクロです。

そればっかりですけど。

昨年は初出場だったので、かなりの驚きと興奮があったが、今年は二回目で

落ち着いているとはいえ、やはりその華々しさは特別な気がして楽しみだ。

去年の桜では黒田くんが歌詞を一部飛ばしてしまい、息を詰めて見守っている私に

かなり大きな緊張を与えてくれたが、今年はどうだろう。

でも緊張して間違っちゃうくらいがイベント的で面白い。

今年の楽曲候補は風かあなたへと続く道か。

それにしても一年の過ぎる速さにはちょっと愕然としてしまうのだけど。

そのことのほうがずっと重要だろうと、ちょっと自分に問いかけてみる…。

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2006年11月25日 (土)

明けるまでの長い夜

最近のニュースは辛い。

勿論悲しい出来事が多いせいではあるが、その解決の方向がまるで的外れに見えて、

世の中の情勢がますます混沌としていく気がして仕方がないから。

物事の責任を誰がどんな風に取るか。

誰かにとっての主観的苦痛を誰がどのように償うか。

何が正しいのか。誰が正しいのか。

答えが見えない。

様々なメディアが責任の所在を問い、その贖罪の方法を論じて追い詰めていく。

長と呼ばれる人が土下座をして詫びる姿をテレビカメラが追う。

でもそれを見る私の心は途方もなく冷えてゆく。

それは本当の意味での贖罪ではない。彼はそれが自分のせいではないと信じている。

そして私もそうだ。

彼のせいだけではあり得ないと思っている。

例えば、陰惨ないじめというものがどれほど人間の尊厳を傷つけるものか。

人間の尊厳を傷つける。

それは人として決してしてはいけないことだと、大人は子供に教えなくてはいけない。

それは人としての最低限の倫理なのだと。

人として決してしてはいけないことがあるのだということすら知らない傲慢な子供たちに。

そして大人にも。

でも、

例えどんな理由であれ、人間が自ら選んだ死というものの責任を

誰かに負わせていいものなのだろうか。

それこそが亡くなった人の尊厳を傷つける行為ではないのか、と。

誤解を恐れずに言ってしまえば、私は自ら死んでいく人間は

その死の責任を自らが負うべきだと考えている。

それが人として生を全うする最後の砦だと信じている。

だからこそ本当は死んで欲しくない。

逃げろ

そう思っている。

逃げ切ってほしいと願っている。

逃げ切ることは絶対に可能なのだ。

今を耐えることさえできれば。

それは底なし沼のように果てしない絶望に思えるかもしれないけれど、

決してそうではないことを、生き続けている人間は知っている。

無関係なくせに、あたかもそれが社会の正義であるような勘違いや偽善で

あなたの死を声高に語り、贖罪を求めるということを盾にして、人を余地のない

壁際まで追い詰めることに何の疑問も持たない、そんな輩に

あなたの人としての尊厳を絶対にゆだねてはいけない。

あなたの死はあなただけのものだ。

それは一番身近な家族さえ侵してはいけない領域なのだ。

その神聖な領域をやすやすと他人に明け渡してはならない。

そう思っている。

でもね、

つらいよね。

何をどう言ったって辛いときは辛い。

泣いても叫んでも、唇を血が出るほどの強さで噛んだとしても。

自分一人だけ辛いわけじゃないと頭ではわかっている。

それでもそんなことが信じられなくなるほど孤独になる。

皆どんな風に乗り越えているんだろうね。教えて欲しいと思う。

私は

一つだけ大事な言葉を持っている。

決して自分の抱えている問題の本質的な解決にはならないけれど、

それでも小さな力をくれる。

あなたの心にも小さな力をくれますように。

君看よ双眼の色 語らざれば憂い無きに似たり

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2006年11月24日 (金)

18

高校野球というものを初めて意識したのは、PL学園のKKコンビと呼ばれた

清原和博と桑田真澄が活躍をした頃だった。

私は野球には全く興味がなく、ルールも知らないような子供だったが、

彼らの目の覚めるような活躍は私の記憶に強く残った。

それでも桑田真澄という投手の名前が私の中で特別になったのは、

数々のタイトルを取り、華々しい活躍を続けていた時ではなく、1995年に試合中に

負った怪我で余儀なくされた長期離脱から復帰した1997年の4月の試合のことだ。

彼がその際に見せた、マウンドに跪きプレートに手をあて祈るようなパフォーマンスは

後々まで話題になっていたが、私が驚かされたのはその試合での彼のプレーだった。

彼はその投球のみならず打撃、守備にも定評がある選手だが、その試合の際、

重傷を負った時と全く同じ三塁線沿いの小フライを、彼は何のためらいもなく

全速力で走りこみ捕球した。

それはプロの選手としては至極当然のことだっただろう。

それでもそのプレーはあまりにも怪我を負った際の場面を彷彿とさせるものだったので、

私はその瞬間思わず息をのんだ。

デジャヴ

彼にそんな感覚が全くなかったとは思わない。

しかし彼は何もなかったようないつものポーカーフェイスでプレーを続け、

私は彼が復帰したばかりのこの試合で再び怪我を負うようなことがないよう、

祈るような思いで見ていた。

彼は長期離脱した際も黙々と自分のメニューでトレーニングを続け、

彼が毎日走り続けたグランドの芝ははげて一本の道となり、いつしか

「桑田ロード」と呼ばれるようになった。

決してその類い稀な能力のみに頼ってきた選手ではない。

それは彼が持つ野球に対する強い思いを感じるに足るプレーだった。

それから私は彼が投げる試合は彼が怪我をしないこと、

出来れば勝利することを願うようになっていた。

その彼が今年、入団以来着ていたエースナンバー18のユニホームを脱いだ。

「心の野球ーそれが桑田真澄の野球」と彼は語っていた。

だからこそ彼は続けるのだ。思い残すことがないように。

彼の心の野球を、私も最後まで見てみたいと思っている。

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2006年11月12日 (日)

夢見つつ深く植えよ

4622045974 夢見つつ深く植えよ
メイ サートン May Sarton 武田 尚子
みすず書房 1996-02

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タイトルに惹かれて読み始める。

ベルギー生まれで4歳のときアメリカに亡命した詩人、メイ・サートンのエッセイ。

46歳にして彼女は、ニューハンプシャーのネルソンという田舎の村に居を構える。

彼女が直感で選んだその家は、十八世紀の農家で、かなり傷んではいるが、

五つの暖炉と小川に囲まれた30エーカーの広大な土地付きのものだった。

そして彼女の、時間をかけた家と庭作りの生活が始まる。

彼女は言う。

庭作りほど多くを要求し、多くを与えるものがほかにあるだろうか 

おそらく詩を書くことのほか、私は知らない と。

さらにその二つの共通項として、たまたま全てがうまくいったときの稀な喜びを

得るために、受け入れなくてはいけない無駄の量と、どちらもが再生をもたらす情熱

である点があげられている。

そして異なる点は、詩は全ての年齢のもので、庭作りは晩年の喜びであり、若者は

忍耐に欠け自分にかまけすぎており、庭を作るほどに、根を下ろしてはいない、と。

それは言葉通り庭のことでもあるし、人生のことでもある。

そのことはタイトルでもある 夢見つつ深く植えよ いう言葉につながってくる。

私はもちろん彼女の言う、庭を作るほどに根を下ろすような年齢ではないが、

その年齢に達した時、植えるべき夢見る想い、取り入れるべきさすらいの実を、

持ち得ているだろうか、と不安になる。

私は今をあまりに刹那的に生きているし、そして何かを育てようという

前向きな情熱に欠けている。また、何かに躓いた時それを受け入れ、その上に

重ねていこうというよりは、更地に戻して傷つかないことを選んでいる気がする。

そんな土地には何一つ育つものはないだろう。

そこでは孤独が私の仕事

それは庇護どころか深刻な要求ばかり

私は問わず、ただ答えねばならない

この花婿の手を取って

彼女が惜しみなく与え、そして与えられたように、私も庭を作るための準備を、

今から始めなくてはいけない。そう強く感じる。

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2006年11月 3日 (金)

帰ってきた男

最初に思い切って言ってしまうけれど、ウルフルズというバンドは音楽としては

それほど好きではなかった。

それでも時々、「バンザイ」「暴れだす」「あそぼう」「ええねん」などを聴くと

そのパワフルな楽しさにちょっとテンションが上がったりもする。

そして関西出身であるということの無条件の親しみみたいなものもある。

CDを購入したりはしないがヒットしていると頑張ってるなぁと嬉しい、そんなスタンス。

だから1999年にベーシストのジョン・B・チョッパーが脱退したときは、

自分でも思いのほか残念だった。「すごく楽しそうにやってたのに…」と。

でももっと驚いたのは2003年に彼が復帰したときだ。

バンドの解散、再結成というのは良く聞く話だが脱退したメンバーが復帰するというのは

ちょっと珍しい話だと思うのだけれど、どうなんだろう?

多分脱退も復帰も本人にとっても他のメンバーにとっても、決して簡単な話では

なかったに違いないが、この話を話すときのメンバーはとても楽しそうだ。

「戻りたいと言われた時に、もう答えは決まってた。戻った方が面白いし、

戻った方がええと思った。でも大人やし、ちょっとは悩んだふりしとこうと思って」

とはボーカルのトータス松本の言葉。

一番心に残ったのはテレビ番組でドラムのサンコンJr.が話していた、最初に

トータスから「黒田(ジョンB)が戻りたいっていってる。どう思う?」といわれた時の感想。

「ありえへん」

その後、少し胸にこみ上げるものを抑えるように笑顔になりながら、

「結構大変…大変やったからね。三人でやってきたこと…そう簡単に

戻りたいといわれても…」

三人になってからの一時の低迷期、オーディションをしてもベーシストが決まらず、

サポートメンバーを迎えて、活動し続けた時期。

これ以上ないくらい正直なその言葉に胸をつかれた。

そんな様々な想いを越えて、今は笑顔でこんな話もネタにしながら4人でいること、

それがウルフルズの強さだと思う。

だから私はウルフルズを見ているのが好きなのだ。

ところでジョン・Bという人は話も少したどたどしく、私の中ではやや挙動不審なイメージ。

でもその天然でほんわかとした雰囲気が実に良い。

そんな彼のオフィシャルブログが 1DAY John B Chopper !?  

日常の何気ない発見やさりげない言葉やイラストを彼らしいシンプルさで

綴った日記だ。

そのブログに綴られた詩や写真、ブリキの工作などと、阪神児童画研究会

「ぼくとわたしの児童画展」での子どもたちの作品とのコラボレーション展示が、

11月11(土)~16(木)まで大阪市立中央図書館 1階エントランスギャラリーで

開催されるらしい。

ジョン・B・チョッパーと子どもたちの「シレッとしている場合ではない」展 

ちょっと楽しそうなので覗いてみたい。

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2006年10月28日 (土)

アデン アラビア

ポール・ニザンの「アデン アラビア」 をどんなきっかけで手にしたのか、

今となっては思い出せないが、二十歳を過ぎずに出会えてよかったと

なんとなく思ったことは覚えている。

それはもちろん「ぼくは二十歳だった」で始まるあまりに有名な冒頭の言葉のせいで、

それなのに私はその文章がそれほど好きではなかった。

ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどと

だれにもいわせまい 

この文章に言葉に対する陶酔を感じ、気恥ずかしさと嫌悪感があった。

あまりにも表層的な捉え方で情けない限りだが、その気持ちはずっと変わらなかった。

それだけで、もうこの本を読む資格を持たない私ではあるが、それでも

彼の持つ躊躇のない激しい怒りの言葉には、圧倒されずにはいられなかった。

それは怒りを持ち得ない自分への歯がゆさにもつながる。

私は決してこの本をきちんと読み込んではいない。気が向いた時に、気が向く分だけ

ページをめくり、断片的に言葉を拾い集めるだけだ。

それでもポール・ニザンは私に時折強く語りかけてくる。

ぼくらの行動のひとつたりとも怒りと無関係であってはならない と。

そして

もはや憎むことを恐れてはならない。もはや狂信的であることを恥じてはならない。

ぼくらは彼らに不幸の借りがある。

彼らは、ぼくを危うくだめにしてしまうところだったではないか。とも。

その言葉は言葉通りの意味で私に語りかけるのではなく、恐らくそこから発する

エネルギーが、ある種の信号のような形で私の心に強く訴え、そして力を与えてくれる。

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2006年10月19日 (木)

新しい私になって

TVから聴こえてきた歌声に何気なく振り返ってみると、女性が洗いたての顔に

ゆっくりと化粧水をつけていた。少し微笑みを浮かべた清清しい表情で。

バックに流れているのは気負いのない柔らかでシンプルな女性の歌声で、

ストレートな言葉からストーリーが見えてくる。

恐らく失恋したのであろう女性が、洗面台のところで涙を流し、それを何度も

洗い流している。その後、新しい自分に生まれ変わる決心をするように、

ゆっくりと化粧台の前で微笑んでいる。

とても美しくて印象的なCMだと思った。

これは資生堂の企業広告CMで、偶然テレビでこのCMの撮影現場のドキュメント

番組を見た。CMの女性はマイコという初めてCMに抜擢されたモデルなのだそうだ。

監督はこのCMの大切なポイントは涙であると考え、彼女の本当の涙を待つことにした。

初めてのCM、それだけでも不安があるだろうに、本物の涙を流さなくてはいけない。

彼女が鏡を見つめて様々な思いを錯綜させているとき、監督をはじめ、

スタッフ全員の視線が彼女に注がれる。

私もテレビの画面を通じて息を詰めて彼女の涙を待ってしまう。

いくらかの時間の後、彼女は流れた涙をゆっくりと水で洗い流し、タオルで拭いてから

鏡の中の自分の顔をじっと見つめている。

そして再びこみ上げそうになる涙を振り切るように、もう一度洗い流す。

監督はあんなに待った涙をCMには使用せず、洗い流すところから見せた。

けれども見ている私たちには、彼女の流した涙が切実に伝わる。

彼女の清清しい微笑のラストシーンのバックに歌が流れる。

こんな時いつでも涙を拭いてくれた母さんは 今はいないから

忘れます 忘れます 新しい私になって

何十秒かのCMの中で何をどんな風に伝えられるか、それは単に情報量でも

強烈なインパクトでもないことを、このCMが教えてくれた。

当然だと納得できることだが、このCMは今とても話題になっているらしく、

このCM曲も急遽フルバージョンのCD発売が決定したそうだ。

シンガソングライターの熊木杏里が歌うフルバージョンのこの曲も

是非聴いてみたいと楽しみに待っている。

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2006年10月15日 (日)

神風吹く夜

大阪城公園の駅を一歩降りたところから、もうお祭りのような賑わいを見せている。

10月6日の広島グリーンアリーナにスタートした、

 KOBUKURO LIVE TOUR '06 "Way Back to Tomorrow."

 11、12日は地元、大阪城ホールの2DAYS。

私は12日に会社を早退しての強行参加だ。

楽しみたいという前向きな熱気に包まれた会場内は、大勢の立ち見も出るほどで、

この中にいるだけでもうすでに楽しくなっている。

ツアーはまだ続いているのでセットリストにはあまり触れないほうがいいのかも

知れないけれど、少しだけ書いてしまうので、これからの参加で内容を

知りたくない方は、続きを読まないでくださいね。

今回まず嬉しかったのは、潮騒ドライブ があったこと。この曲でみんなと一緒に

手を振ってみたかったので、いきなりイントロが流れた時は驚いたがやっぱり楽しい。

中盤のじっくり聴かせるバラードも良かったが、ノリの良い曲に無条件に体が

動いてしまうような感覚がライブならではの楽しみなので、予想外だった

インディーズ時代の 神風 がきたときは私のテンションは最高潮に。

コブクロのライブは弾けて止まらないトークも重要なポイントなのだが、

前日のアンケートで「黒田さんのトークの切れが悪かった」とトークのダメだしをされ、

憤懣やるかたない黒田くんの怒涛のトークと絶妙の間で掛け合いを見せる

小渕くんのコンビネーションに、おなかと頬が痛くなるほど笑わされた。

それにしても全てのアンケートに目を通すという律儀さには驚く。

実は、前半黒田くんの声が時折いがらっぽく割れるところがあり、心配したのだが、

トークで勢いがついたのか後半は調子を戻してくれた。

それにしても彼の声は年を経るにつれて、優しい歌を本当に優しく歌えるように

なっていっている気がする。

LIVE DVDでNOTEを歌う黒田くんに小渕くんが、「この歌を歌うときのお前はな、

お前の中にない優しさが、何故か150%くらいでてくる」と言うと、

黒田くんは「俺ってこんなに優しかったんやって改めて気づく。この曲歌うと」

と冗談っぽく答えている。

でも確かに思う。小渕くんの書く言葉に触発されて思いがけない自分の内面が

出て来ることを彼は本当に感じているんじゃないだろうか。

そして言葉も黒田くんの声を得ることでその深みを増す。そんな相乗効果を

二人を見ていると感じる。

そして今回強く印象に残ったこと。

彼らが何度も深々とお辞儀をし、「ありがとう」ということ。

こちらこそ濃密で幸せな時間をありがとう。そう思いながら、ホールを後にした。

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2006年10月11日 (水)

ハッピーデイ

Vfsh0041_1 HAPPY BIRTH DAY と書かれたプレートの載った

ホールケーキはもうそれだけで華やかだ。

今日は職場の同僚の誕生日だったので、

ささやかながらケーキでお祝いをした。

女性の職場というのは基本イベント好きなので、

決して珍しい光景ではないのだけれど、

朝からちょっとしたそわそわ感がみんなに

蔓延しているのがおもしろい。

                                             ケーキの甘さが口の中に広がるみたいに

                     心に甘くて溶けそうなふんわりとした幸福感がある。

         ↑            祝われる側も祝う側もHAPPY BIRTH DAYと

a la campagneのケーキ大変美味でした   HAPPY DAYをお互いに満喫して笑顔になる。

                      ろうそくの火を消すとふっと現実に帰るような、

                      そんな儚さがいいんだな。

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2006年10月 8日 (日)

グレン・グールドの効用

二十世紀後半、その類稀なる才能を持って鮮烈な印象を人々に残したピアニスト、

グレン・グールドが奇人と呼ばれたり天才と呼ばれたりすることは、

あながち間違いではないのだろうと思う。

しかし私が彼を知った1991年にはもう彼はすでにいなかったし、彼の奇行を

中心とした数々の逸話や彼が残した多くのもの、グレン・グールドは1964年に

32歳という若さで、全てのコンサート活動から完全に身を引いて以降、

スタジオにおける演奏の録音、映画やラジオのドキュメンタリー、著述等々に

情熱を傾けたが、それらから私が知りうることは、ただの断片でしかない。

つなぎ合わせても全てではないし、どこか一方向を指し示すものですらない。

だから結局のところ良くわからない。

彼のピアノが好きな理由を、子供の頃から週に一度のピアノのレッスンが嫌いで、

家で練習することがさらに嫌いで叱られてばかりいた私のような者には、

その卓抜した音楽性なり技巧なりを、専門的な知識を持って明確に語ることなど

到底不可能だと自覚している。

ただ聴きたいという欲求を強く強く感じるとしか説明できない。

けれども彼が好きな理由は彼のピアノのみによるのではないことはわかっている。

彼がどれほど多くの人の言葉で語られようと、彼の残した演奏の数々に懸命に

耳を傾けようと、彼が残した夥しい量の言葉を拾い集めてすら、私には

わからないことばかりだという事実が、求心力になっていることは否めない。

彼を知りたいという思いと好きだという思いは厳密には別物だろうが、私には

すでに区別がつかなくなっている。

彼の生涯を語る著述を読み、残された音に耳を傾けるとき、いつも考えてしまう。

彼は明晰な探求者であったけれど、明晰であればあるほど、求め続けることには

終わりがない。

現実逃避とも言える意識的な孤立化の中で、果たして彼は望むものを一つでも

手に入れたのだろうか?と。

世界は1982年に彼を失ったけれど、身近な人々以外の、我々のような、

彼のシェルターの「外のもの」にとっては、その喪失によって受ける打撃の大きさは、

彼の意識的孤立化によって結果的に軽減されている気がする。

だからこそ私は時折鼻歌の混じる彼の演奏を聴くとき、彼の存在を常に変わらず

強く感じることが出来る。

その存在感があってこそ彼の演奏は私の心に多くのものを与え、些細な悩みが

侵食するように私の心を蝕むとき、そっと掬い上げてくれたりもするのだ。

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2006年9月23日 (土)

風を聴く

どこかでが流れている。

舞い上がる花びらに吹かれて あなたと見た春を想う

うつむくまで気づきもしなかった どうしてだろう 泣いてた… / 風 /コブクロ

何度となく聴いた曲だがそれでもどこかで聴こえると必ず振り返る。

コブクロは大好きなので、色々な曲を聴く。でもこの、二枚目のアルバム grapefruits

に収録された 風 はかける度に一瞬息を詰めて聴き入ってしまう。

唐突で申し訳ないが、私の母は歌が苦手だ。音痴、というと言葉がきついので

言い換えるが、歌うことは嫌いではないが音の再現性は非常に低い。

そのせいだけでなく関心のなさも多分にあるが、流行の歌などは同じように聴こえる

ものが多いらしく、最近の曲にも人にもほとんど興味を持たず、曲の判別は

ほぼ出来ないと断言しても良い。

そんな母がコブクロの 桜 がとても好きになった。

だから私の車に母が乗る時は、いつもコブクロベストCD(自己制作)をかけている。

しかも母は 風 も気に入っていて、驚くことにこの二曲は前奏で完璧に判別できる

ようにすらなった。これは喝采ものだ。

そして親と好きなものを共有できるのは、ささやかではあるけれど幸せなことだ。

母は桜の歌詞がいいねという。確かに桜は言葉を丁寧に積み上げている印象がある。

私はコブクロの歌は言葉の優しさと声の優しさに距離がないから好きだ。

時々私は、とても素敵な歌詞の歌を唄う人の声に無理を感じて、その言葉を

信じることが出来ないことがある。

それは全くの主観的判断なので、ただ「私がそう感じる」というだけなのだけれど、

声は語る。

怖いという思いをこめて本当にそう思う。

そういえばコブクロのストリート時代に 轍 という曲がある。

抱えきれない夢が不安に変わりそうな日がきたら

そんなときは 僕のところへおいで 歌を唄ってあげよ

コブクロがこの箇所を唄うとき、うっかり涙ぐんでしまうことがある。

ストリートというとても近い場所で唄っていた彼らだからこそ、この言葉が心にしみる。

僕のところへおいで そんな言葉をためらいもなく信じてしまっているのだ。

この歌を聴くとき、私はいつも道端で唄う彼らの前にひざを抱え込んで座っている。

もうすぐ彼らのシングル楽曲を集めたALL SINGLES BEST が発売される。

 桜 も 風 も 轍 も 収録されている。

がやたらにテレビで流れていたのはそのCMだったのか…。

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2006年9月18日 (月)

バグダッド・カフェ 出会うかもしれない場所

B00008BOFQ バグダッド・カフェ 完全版
パーシー・アドロン マリアンネ・ゼーゲブレヒト
紀伊國屋書店 2003-04-25

by G-Tools

私がバグダッド・カフェに初めて出会ったのはポストカードだった。

主人公の太ったドイツ人の女性、ジャスミンが脚立に登って大きな給水タンクを

掃除する、そのシーンがカードで売られていたのだが、背景の青と黄色の不思議な

色彩と相まって、その幻想的な構図が昔みた月に梯子をかけて掃除をする人の絵を

思い出させ、映画のことなど何も知らないままつい購入してしまった。

映画を観たのはそれから随分後のことだ。

映画の冒頭、絵のような不思議な色彩の画面が続き、斜めのアングルでみる

その世界は、アメリカ西部のモハーベ砂漠と場所が限定されているにもかかわらず、

全くリアリティーが感じられない。

リアリティーがないのは場所だけではない。

主人公であるジャスミンもドイツ人であることから言葉少なめなせいだろうか、

私には彼女がリアルな存在として感じられなかった。

ドイツでの夫との暮らしが不本意で孤独なものであったのだろうことは想像できる。

でも何故此処だったのか。

乾いて荒涼とした砂漠。うす汚れ、雑然とした生活の喜びの感じられない寂れたカフェ。

彼女が新しい居場所として、この場所を選んだ必然が感情として伝わってこない。

乾いた風の向こうから響いてくるような Calling Youの歌声がさらに現実感を奪い取る。

夫と喧嘩をしたジャスミンが車から降り、砂埃にまみれて歩き続け、給水とガソリン

スタンド、そしてカフェ&モーテルであるバグダッドカフェに現れる、その時カフェの

女主人であるブレンダは、だらしない怠け者の夫と喧嘩をして彼を追い出したばかりで、

表に捨て置かれたボロボロのソファに身を沈め、やりきれなさと空しさに泣いていた。

向かい合う二人の女が、一人は大汗を掻き、一人は涙を流し、それぞれがハンカチで

顔を拭きながらお互いを凝視するシーン、何かの象徴でもあるようだしコミカルでもある。

この映画で唯一リアルな存在感を感じたのはブレンダだ。

彼女は役に立たない夫や、身勝手な子供たちに囲まれ、ただ働くだけの実りのない

生活に苛立ち、空しさを感じつつ、ただ目の前のことを片付けるだけの刹那的な人生を

送っている。彼女は、忽然と現れ目的も何者かもわからない、しかも男物の着替えしか

持たない(車から降りるときに夫の鞄を間違って持ってきてしまっただけなのだが)

ジャスミンの存在を訝しく思い、彼女が徐々に家族と親密さを増すことに苛立ちを

隠せない。その腹立たしさを家族にもジャスミンにも他の滞在客にもぶつけるが、

その怒りは誰からも確かな感触では返ってこない。

そのなんともいえない歯がゆさが、よくわかる。

ジャスミンとても必死だったのだろう。その場所で自分に出来ることを見つけ、自分に

出来ることを全てすることで、此処を自分の居場所にしたかったのだ。

子供たちと遊んではしゃいでいるジャスミンに感情を爆発させたブレンダが

「自分の子供と遊びな」 そう言い放つとき、

ジャスミンは「いないの」 と、悲しみを湛えた目で静かに答える。

その瞳をみて、ブレンダもブレンダの感情と同化した私も、ジャスミンの孤独に

胸を突かれる。

その瞬間から少しずつブレンダはジャスミンに心開いていくのだが、

それからの、たまたま車のトランクから持ち出した手品セットを使ったジャスミンの

パフォーマンスが評判を呼び、瞬く間にバグダッドカフェがたくさんの客で賑わい始める

展開は、まるで御伽噺のようだ。

はじめから御伽噺のようだったのだ。ジャスミンが現れ、荒れ果てた場所を甦らせ、

そこにいる人たちの心も少しずつ変えていく。

私にはジャスミンがブレンダのために現れた優しい魔法使いのような気がする。

でも本当は魔法使いの役割を担っただけの、寂しさを心に秘めた一人の女性だ。

いつか魔法が解ける日が来るのかもしれない。

長期滞在客だったデビーが、その御伽噺のような場所から

「仲が良すぎるわ」という言葉を残して背を向けたように。

でも私はバグダッドカフェのような場所が自分にもあればいいのにと、

心のどこかで願ってしまう。

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2006年9月17日 (日)

宙船 そらふね

中島みゆきという歌手を知ったのはいつだったのか、何の曲だったのか、

全く覚えがないが、気がつけば彼女の歌は耳になじみがあった。

彼女に全く思い入れのなかった私が、一番初めに強く意識したのは、3年B組金八先生

第2シリーズで挿入歌として流れた「世情」 その印象的なメロディーラインと

世の中はとても臆病な猫だから 他愛のない嘘をいつもついている

包帯のような嘘を見破ることで 学者は世間を見たような気になる 

という歌詞が忘れられず、私は世情の入ったアルバムを一枚買った。

買ったのはそれ一枚きりで、彼女の曲をわざわざ聴くこともなくなったが、

それでもどこからか流れてきて、はっ、として耳を傾けることは多い。

地上の星の大ヒットは記憶に新しいが、今、彼女の提供した楽曲でTOKIOが歌う

宙船」がかなり流行っている。そしてこの「宙船」がとても良い。

一度聴いて彼女の曲だとわかるほど特徴的な音と言葉だ。

彼女には心に残る音と言葉がいくつもある。

帰れない者たちが月に泣く十三夜 (帰れない者たちへ)

空と君とのあいだには今日も冷たい雨が降る(空と君のあいだに)

ダイレクトに励まされるものもある。

ファイト!闘う君の唄を 闘わない奴等が笑うだろう

ファイト!冷たい水の中をふるえながらのぼってゆけ (ファイト!)

彼女の不思議な声もあるかとも思う。細くもなく太くもなく、震えるような、それでいて

力強さを感じる、そんな声。

だからこそ心の機微のようなものを絶妙なバランスで歌えている気もする。

宙船」 も彼女の声でも聴いてみたいと思っていた時、

ニューアルバム『ララバイSINGER』2006年11月22日(水)リリース! ニュースが。

勿論宙船も収録されている。聴き比べるというわけではないが、

彼女の宙船はまた違った色合いなのではないかと期待している。

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2006年9月 4日 (月)

お願い

本棚で探し物をしていてふと気づいたら、

いつのまにか無くしている本がたくさんあった。

レベッカ 上巻/デュ・モーリア 

(モノクロの映画もとても素敵だったけれどやはりなんといっても小説。)

ホテル・ニューハンプシャー 上巻 /J・アーヴィング

(エッグが死んでしまったところでいつも私の思考がとまってしまう。) 

長距離走者の孤独 / アラン・シリトー

(ほとんど内容を覚えていない。多分大学の頃に読んですぐに無くしている。

でも土曜の夜と日曜の朝は残っている。何故だ?)

山の音 / 川端康成

(川端康成の小説の中で何度も何度も読み返したのはこの本と短編の「日向」だけ)

多分探せばまだまだある。

無くすはずのないものが、いつの間にか手元から消えていたりするのは

一体何故なんだろうか?

間違って処分してしまったのか。家族の本の山に紛れたか。

それとも夜中に小人さんが隠しているのか。

もう一度読みたいものばかりなので、出来れば

小人さん、返してください。

====追記====

山の音を母の本棚で発見した。

すばやく奪取するも、母は自分が取り込んでいたことすら気づいていない。

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2006年9月 3日 (日)

新たなるニコラス・マクファーソン

以前書いた「ニコラス・マクファーソン再び」の記事から実に3ヶ月もたって、

やっと本当に観る事が出来た。

松下IMPホールでの、Piper第二回公演「ニコラス・マクファーソン」の再演。

メンバーは川下大洋と三上市郎以外は新しい顔ぶれ。小須田康人、ナイロン100℃の

みのすけ、六角慎司、平田敦子そしてアドゴニー。

7年前に観た時面白かった印象があったのだが、細かい話の内容はすっかり

忘れてしまっていた。そのおかげで新鮮に楽しめたので、私の忘却能力に拍手。

とりあえず薄い記憶を辿ってみると、やはりメンバーや演出の違いもあり、印象が違う。

カーテンコールで川下大洋も話していたとおり、「段取りを一歩間違うと大変な」事に

なってしまう、緻密に設定されたダンスのような動きなどは前にはなかったと思う。

二つの別々の場所にいる二組の会話が、同じ場所でシンクロして進んでいくのが

お見事。そしてその決められた動きの中でも役者たちのそれぞれの個性が光る。

全体のストーリーの流れよりも、まるでふざけて遊びまわっているような役者の動きや

台詞回しなどが面白い。

小須田康人の舞台を見始めて12年になるが、こんなにのびのび楽しそうなこすちゃんを

見ていると、ついこちらも楽しくなってしまう。

三上市郎は最近抑えた芝居の渋い役が多くなってきた気がするが、こんな風に

振り回されてちょっと壊れちゃう感じの役の方が好きだ。

でも今回は平田敦子のキャラ勝ちだとわたしの中では決定した。

彼女を初めて舞台で観たのは確か90年の加藤健一事務所の「ラブゲーム」。

その時は恰幅のいいおかみさん的役柄だったのだが、彼女は見るたびに

どんどん弾けていってそして年齢不詳になりつつある。今回の殺し屋と警察の交戦に

訳もわからないまま紛れ込み、誰よりも楽しそうに戦いに参加する勘違い弾けキャラは

彼女ならではだ。外見的なものもあるだろうけれど、最後には彼女の可愛らしさに

すっかり心奪われてしまった。

新しいニコラス・マクファーソンに一票。

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2006年9月 2日 (土)

カクスコ帰る 「お元気ですか?」

劇団の正式な解散は2002年1月だが、私が最後にカクスコを観たのは2001年10月の

最終公演「いままでどうもありがとう」の大阪公演になる。

カクスコは1987年に結成された、メンバーが脚本、演出も出がける主宰中村育二、

岸博之、井之上隆志、山崎直樹、近藤京三、原田修一の6人による劇団。

年末はカクスコを観ると決めていた。年に二回公演があることもあったが、12月には

必ず新作がかかった。私の中での年末の風物詩的劇団でもあった。

一応骨格になる設定があり、それに沿ってストーリーは進められるが、どちらかといえば

それはあまり重要ではない。そこにはいつもあまりさえない男たちの日常があり、

どうでもいいようなこと、例えば天井近くにさされた押しピンの気持ちに思いを馳せて

語ってみたり、床の軋みを見つけたといってはそのウキュウキュいう音を嬉々として

延々鳴らしてみたり、歌ってみたり、相撲してみたり、些細なことで喧嘩してみたり…、

そんなささやかで情けなくて楽しげな彼らの姿があって、私たちは満杯の幸福感を

もらっていた。変わり映えのしない設定や彼らだからこそ、安心していつも

会いに行くことができた。

中村は常々「メンバーが一人でも抜けたらカクスコを辞める」と言っていたが、

その言葉通り、2001年、近藤の脱退によって、あっさりと(部外者の私から見れば)

解散が決定してしまった。

近藤の脱退の理由も「近藤京三故郷へ帰る」という、中村がHPで解散の報告をした

文章の中で「カクスコを抜ける理由などこれ一つで充分、カクスコを10回抜けても

お釣りが来ます」 と書いていた通りで、今まで私たちが観ていた近藤の人柄を

決して裏切らないものだったし、何よりも終わり方そのものがいかにもカクスコ

らしかった。だから私たちは、彼らの最後の舞台に万感の思いをこめて、

ただ大きな拍手を送るしかなかった。

時々TVで録画したものや唯一販売していた公演ビデオ「年中無休」を見ることがある。

落ち込んで、考えを巡らせては寝付けない、目を閉じることにふと怯えを感じるような

そんな夜、カクスコは利く。

ビデオを流して目を閉じ、馬鹿馬鹿しいようなやり取りや、優しいアカペラの歌声に

耳を傾けていると、いつの間にか静かな眠りに落ちている。

そんなカクスコのスペシャル DVD-SET「お元気ですか?」が発売されることになった。

たのみこむというユーザーからリクエストのあった商品を、受注、予約、即売という形で

販売する、消費者リクエスト型ショッピングサイトでのユーザーのリクエストに応じる形で、

9月2日からの仮発注の募集が始まった。200人の発注が集まれば生産が確定との

ことだったが、ものすごい勢いで初日の夕方には200人突破し、生産が確定したらしい。

大好きなものが失われるのは寂しい。その喪失感は保存映像というような代替品で

埋められるものではないけれど、それでもその存在の記憶を風化させたくないという、

自分と同じ思いを持つたくさんの人の存在を感じることは嬉しい。

そして舞台がなくなったことで直接伝えることが出来なくなった私たちの思いを

彼らに伝えられたら嬉しい。

「お元気ですか?」そう話しかけるみたいに。

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2006年8月28日 (月)

疾走する男たちのエルドラド

コンドルズという集団は一体どういう集団なのか、あまり良くわからない。

見に行けば行くほどわからない。そして何故自分が見に行っているのかもわからない。

コンドルズは主宰近藤良平を中心に男性のみで結成されたダンスユニットだが、

最初に目を引くのが舞台衣装の学ランだ。ダンスに適しているとは到底思えない衣装で

彼らは踊る。というよりも疾走する。

彼らはとにかく走っているのだ。舞台の上で疾走し、そして跳ぶ。

メンバーの人数は恐らく10人以上20人未満だと思われる。

良くわからないのは、目の前でめまぐるしく動き回る彼ら全員をきちんと認識できない

ままいつも観終わってしまうためだ。そのとにかく大勢の男たちが、舞台で疾走する

姿は圧巻だ。ダンスのレベルは必ずしも一定ではない。近藤の実に見事で切れのある

しなやかな動き、高い跳躍に比べ、中には明らかにダンスに向いていないだろう体型の

出来ないことが存在理由であるのかと思われるメンバーもいる。その不揃いさが

ユニークなのだが、しかしその彼も踊れない事で笑いを取ってはいない。

ただ懸命に踊っているのだ。

コンドルズは踊っているだけではない。奇妙なダンスや、楽器の生演奏、人形などを

使って繰り広げられる不思議なナンセンスでシュールなコント。

何故それらがダンスに融合されているのか、私には良くわからないのだ。

整合性のなさが徹底している。その馬鹿馬鹿しさに微妙な笑いが出ると、すかさず

「乾いた笑いしやがって!!」とメンバーの一人、小林顕作が鋭く観客に突っ込んでいる。

恐らく全てが緻密に計算され作りこまれているのだろう。そう確信したのは

ラスト近く、舞台の後ろ側から当てられたライトで、客席の両側の壁で彼らの影が踊る

演出に感嘆の声を上げるしかなかった時だ。それほど影のダンスは見事だったのだ。

今回の コンドルズ 日本縦断黄金郷ツアー 2006 エルドラド 

ELDORADO~New Best of Condors は今までの公演のベストシーンを集めた

ものらしい。でも私は特に今回がベスト・オブ・コンドルズだとは思わなかった。

彼らはいつも変わらない。そこには、とにかくこうしていることが楽しくてたまらないという

少年のような男たちが、エネルギーの限りを尽くし、ただ舞台を駆け巡る姿がある。

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2006年8月25日 (金)

いくつかの出来事に思うこと

サディスティック・ミカバンド ニューアルバム発売

復活のドキュメンタリー映画の製作も行われているらしい。

学生の頃、きっかけは覚えていないが、サディスティック・ミカバンドを初めて聴いた。

『黒船』『サディスティック・ミカバンド』の二枚のCDは今も持っている。

「タイムマシンにお願い」が有名だが私は「どんたく」が一番好き。

私が生まれたときに結成していたバンドが現役でアルバムを発売する。

そのパワーは文句なしに凄い。

作家吉村昭さん 尊厳死を選ぶ 

人間にしか出来ないことをする。それは人間に生まれてきたことへの答えに

なるのかもしれない。

自分ならどうするかも、その家族ならどうするかもどれだけ考えてもただの想像だ。

でも彼がそんな風に生きて亡くなったという事を恐らく私は忘れないだろうと思う。

子猫殺し 

作家の坂東真砂子さんが日経新聞に掲載したエッセーに対する反響が大きいらしい。

「人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。生まれた子を殺す権利も

ない」 「自分の育ててきた猫の『生』の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを

選択した。もちろん、殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである」

全文ではなく一部を抜き出してそれに対して論じるのは間違っているかもしれない。

だから正しいとか間違っているとかは言わない。

ただ、殺しの痛み、悲しみを引き受ける側が、もしも感受性の貧しい人間だとしたら、

その人が感じる痛みや悲しみが、崖から落とされた瞬間に子猫の感じる実際の痛み、

恐怖に匹敵するものかどうかは疑問だとは思う。

私はどんな信念があろうとも、理屈抜きにその行為そのものが、

それを行える人間が恐ろしくてたまらない。

かつて惑星であった星 

プルート(冥王星) ひときわ変わった軌道を持ち、ひときわ小さかったために

惑星じゃなくなった星。

でもそのせいで水星よりも海王星よりもどの惑星よりも気になる星になってしまった。

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2006年8月23日 (水)

惑星の定義

世界で唯一天体の命名権のある団体、国際天文学連合(IAU)というものを初めて知る。

そのIAUの総会で今までは科学的に明確なものがなかった、惑星の定義が新たに

提案され、それが承認されると今まで小惑星だったり惑星の衛星だったりした星たちが

惑星に昇格するらしい。

おめでとう。

でもこの提案には批判も多く、今は修正案が検討されているのだそうだ。

どうなるのかわからないが、それはどうでもいい。

惑星の定義 その言葉に驚いた。惑星の定義なんて改めて考えもしなかったから。

いや、定義があるのだという認識すらなかった。

惑星は水金地火木土天海冥、子供の頃に覚えた、ただそれだけのもの。

考えてみれば定義がなければ私たちにとっては何もかもがなにものでもなく、

私たちは概念や定義のおかげであやふやな世界の中で路頭に迷わずに済んでいる。

でも人間が作ったものは人間によって変えられていく。

惑星じゃなかった星が惑星になるように、思いがけないものが自己を証明できなく

なってしまう日が来るかもしれないなどと、ちょっと妄想気味に考えてみる。

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2006年8月20日 (日)

惑う子供たち、的外れな大人たち

子供なのにどこか憂いを秘めている。そんな印象があった。

シックス・センス で自らが持つ特殊能力を持ちあぐね、悩む繊細な少年役を演じていた、

ハーレイ・ジョエル・オスメント少年だ。

役柄的なものもあっただろうけれど、彼はもともと少し泣き顔だ。

フォレストガンプ 一期一会 でのガンプJr.はあまりに愛らしくてそれでいてシンプル。

彼は子役だけれど、可愛らしさと達者さ、そしてそのシチュエーションで、

観る側に感情を喚起させるのではなくて、自ら内的なものをそれは喜びでもあり

悲しみでもあるけれども、表現できる役者だったと思う。

一世を風靡した子役たちがこぞって同じ道を辿るのは、やはりその世界のあり方に

何か問題があると思わざるを得ない。

だから彼がマリファナ所持で逮捕されたというニュースは残念だけれど、意外ではない。

でも特殊な世界ばかりではなく、今、ごく身近な子供たちがその危うさを露呈している。

学習能力の低下、集中力のなさ、我慢のなさ、モラルの低下…。

私だって決して威張れたものではないことはわかっている。

それでも今、かつてないほどに子供たちがゆがみを見せている気がして怖い。

自由は大切。でもゆとりや癒しなどという言葉を免罪符にして何もかも許すことで、

ダメにしているものは本当に多い。

私は 池田潔が自身がイギリスのパブリック・スクールで過ごした体験を元に

その厳格な規律の中で見事に育まれていく教育システムについて描いた

自由と規律」という本がとても好きだ。

半世紀以上も前に書かれた本だから、そのまま今の時代に即しているとは

思わないが、無意味なゆるさが蔓延した私たちの社会に必要なものが、この中には

確かにある。そしていくつもの心打つエピソードは、教訓だのという堅苦しさをなしにして、

読み物として是非たくさんの人に読んで頂きたいと思う。

信念を持たない大人が子供を導くことは難しい。ふるきを訪ね今必要なことを、

大人がもう一度真剣に見つめなおすことがとても大切なのではないかと、

数々の悲しいニュースを聞きながら考えてみたりする。

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おばあさんたちのお仕事

いちごばたけの赤いイチゴは、実は地下に住むちいさなおばあさんが染めている。

土の中から掘り出した緑の石を細かく砕き、お日様の光をたっぷり吸い込んだ水に

混ぜると、まっかな染料が出来上がる。

染料を作るおばあさんの地下のお家はモグラの巣のように、いくつもの小さなへやがあり

その迷路のようなお家を見るだけでもわくわくするが、染料作りは本当に楽しそうだ。

出来上がった染料でいちごにひとつひとつ色をつけていくと、赤くて甘いイチゴに変わる。

これがおばあさんの毎年のお仕事なのだ。

このいちごばたけのちいさなおばあさん / わたりむつこ さく 中谷千代子 え は

読むたびにおばあさんのお仕事を手伝ってみたいと思わずにはいられない、

実にワクワクするお話なのだけれど、それでもおばあさんと同じような生活をしたいと

一度も思わなかったのは、一人ぼっちで暮らすおばあさんの毎日が、なんだか

寂しく思えたからだろうか。

私が祖父母、両親と賑やかに暮らしていたためについ比べてしまったせいかもしれない。

両親とも働いていたせいで、私が小さな頃いつも家にいたのは祖母だった。

いや、活動的でお出かけ好きな祖母は家にいないこともしょっちゅうだったのだけれど。

小学生の頃は真っ黒に日焼けし、活発で生意気だった私だが、中学に入る頃から

徐々にやや内気な人見知りな性格が顔を出し始めた。

勝ち気で豪快な祖母には私はあまりに覇気がなく頼りなく思えたのだろう。

「声が小さい」だの「元気がない」だのもっと様々な些細なことでも随分叱られた。

時に理不尽な叱られかたもしたが、口答えもできず大泣きしていた記憶がある。

成長して多少口答えをしようものならそれはそれで大変だ。母が仕事から帰るやいなや、

私はこの子にこんな生意気な口をきかれるために育てたのではない、と母に

激しく抗議し、私は悔し涙にくれながら改めて祖母に詫びなければならなかった。

私が大人になる頃には口げんかをしても、泣かされるようなことはなくなったが、

祖母がいつまでも勝気で誇り高い人であることには変わりなかった。

今になって私は、祖母にこれ以上ないほど大事に育ててもらったのだと心から思う。

祖父のように猫可愛がりはしなかったかわりに、小さな頃に大病を煩った私を

心配してか、豪快な彼女らしく私の行く末を思い、将来の為に必要と思われることは

なんでも許し、そして惜しみなく協力してくれた。

私は祖母に何もしていない。ただ最期まで家族で仲良く暮らしただけだ。

祖母がいなくなってこの夏でちょうど6年になる。夏に限らず祖母の思い出話は

折にふれてしているが、つい先日母が驚く告白をした。

母は赤ん坊の私の沐浴を一度もしたことがないというのだ。

「お母さんはその時何してたの?」 「バスタオルと着替えを持ってスタンバイしてた」

不意に、思い出よりもずっと若い祖母がちいさなちいさな私に丁寧に湯をかける姿が

目に浮かび、涙が出た。

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2006年8月16日 (水)

人魚の沈黙

考えてみるとフランツ・カフカには学生時代から随分翻弄されてきた。

「城」では呼ばれたにもかかわらず城にたどり着けない主人公の測量技師とともに

迷走し、果てはその不条理に主人公が悩み足りないと腹を立てる始末。

読後は自分が一体何を目的に読んでいたのかわからなくなっていた。

短編「掟の門」はドイツ語のテキストで初めて出会ったのだが、内容的な理解が

乏しいため、訳しながらも自分の訳が文法的に正しいかどうか確信できなかった。

その上「掟の門」と夏目漱石の「門」の二つの門を比較したレポートの提出を求められ、

何故だか「歎異抄」まで引き入れて、単位のために自棄になって書き上げた。

内容はほとんど覚えていない。恐らくその程度のものだ。

自分が自分を納得させられるような読解を決して出来ないことがわかっていて、

それでもどうして読んでしまうのだろう。

確かに奇想天外な物語と完結を目的としない潔い書きっぷりは魅力的なのだけれど。

有名な「変身」は朝起きたら虫に変身してしまうが、「橋」では最初から『私』は橋だ。

待つこと以外何も出来ない橋。

待つ以外に何が出来る?一度かけられたが最後、落下することなしには橋は

どこまでも橋でしかない。

しかし橋は寝返りを打ち、自ら落下してしまう。何故などと言ってはいけない。

橋という認識に囚われている私がダメなのである。

そもそも何故『私』が橋に?などというのはもっての外だ。橋は橋だ。

自己破滅していくただの橋だ。勿論常識的にはただの橋は自己破滅なんてしないが。

「人魚の沈黙」はホメロスの叙事詩「オデュッセイア」を基にして書かれた短編で、

オデュッセウスがあやかしの人魚の誘惑から身を守るため、歌声が聴こえないよう、

耳に蝋を詰め、帆柱に鎖で固く自分を括り付けさせ、難を逃れる物語だ。

しかし、この時人魚は歌わなかったのだ。沈黙という強力な武器を用い、自力で人魚に

打ち勝ったという感情と、その後にこみ上げてくる昂然とした気持ち によって彼を

打ち負かすはずだった。が、やはり彼は負けなかった。一心不乱に遥か彼方に

目をすえた 彼はもはや人魚のことなど念頭になかった ためだという。

なるほど。

しかし一方誘惑に失敗したはずの人魚たちだが、この時すでに誘惑しようなどと

もはや考えてはいなかった。

だからこのときほど彼女たちが美しかったことはないだろう とカフカは言う。

もしも人魚に自意識というものがあったなら、この時滅んでいたはずだ、と。

この辺りでもう私は両者の意識の位置関係をやや見失い始めている。

が、カフカは畳み掛けてくる。智将オデュッセウスは煮ても焼いても食えないズル狐で、

とっくに人魚たちの沈黙に気づいていながら一連の芝居をやってのけたのだ、と。

…こうして私はオデュッセウスと人魚とカフカに翻弄された。

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2006年8月15日 (火)

大騒ぎですけど…

現職では15年ぶりだなんていわれてますが、

ちょっとニュアンスが違う気が。

私は政治に無知な人間ですけど、

参拝を、

まるで意地みたいに公約を守るためにするのは、

それは本末転倒

だと思うんですけどね。

何のために参拝してるのか

見ている人に正しく伝わらないでしょ?

最初から黙っていけばよかったね。

そういう問題でもないんですか?

そうですか。

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2006年8月13日 (日)

夏に思い出すひと

炎のストッパーという言葉を覚えているのは、私が野球好きだったからではない。

津田恒美というピッチャーを好きだった、やはり野球にはそれほど興味のない私の母が、

彼が若くして悪性脳腫瘍のため亡くなってしまった時、とても悲しんだからだ。

母は彼の素朴な佇まいと、気迫をもってひたむきに投げる姿が好きだと言っていたが、

実はもう一つ理由がある。母の甥、私の二つ年下の従兄弟のしんちゃんに、

その失礼ながらハンサムとは言いかねる顔立ちや、少し弱気な困ったような表情が

本当に良く似ていたのだ。

小さな頃には夏休みに手をつないで遊んだ可愛い従兄弟ではあるが、今では

学生時代ラグビーをしていたがっちりとした体型のせいか、彼は研修医として

勤務していた病院で、白衣を着ていたにもかかわらず、どこかの部屋の親方に、

「相撲に興味はないか?」

とエレベーターで声をかけられたことがある(らしい)ほどの思いのほかの育ちっぷりだ。

そんなわけで、我が家では非常に高い人気を誇っていた津田投手だが、

現役中病に倒れ、何年かの闘病生活の後32歳で亡くなってしまった。

彼の死を惜しんで追悼の番組の放映も本の出版もいくつもあり、知らなかった

彼の人となりや、エピソードを知るにつけ悲しみもやりきれなさも増していた。

平成5年の夏のことだ。

そして今、唐突に気づいてしまったのだが、私は津田投手の年齢を

いつの間にか通り越してしまっていたのだ。とても信じられないのだけれど。

事実としては理解していても、どうしても実感できないことがある。

今はいない人を思うとき、きっと自分もその人を見ていた頃の目線になってしまって、

恐らくいつまでたってもその差は縮まらないのだと思う。

タイガースを好きな父が今夜も身を乗り出して試合を見ている。

それを横目で見ながら、時折私と母は津田投手を思い出して話をしてみたりする。

彼の活躍していた姿を思い出すのは、少し悲しいけれど幸せな気持ちになる。

そんな姿を見せてくれたことに、「ありがとう」とそっと感謝することしか出来ないけれど。

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2006年8月 9日 (水)

そんな一日

朝からダニエル・パウターがテレビでハイトーンの歌声を響かせている。

驚くことに生で歌っているらしい。

彼のインタビューに気をとられていたら危うく遅刻しそうになっている。

いつも通る交差点にパトカーと大勢の警官がいて驚く。

後部を大きくへこませたタクシーが写真を撮られている。

いつも職場近くで見ていた赤いバンダナを巻いた犬が死んで死んでしまったらしい。

特に仲良くはなかったのに、職場ではみんなちょっとしんみりしている。

バイバイ、マイケル。

なんだかやけに忙しくてエアコンの効いた部屋で大汗をかいている。

椅子に座るとき思わずでた溜息が思いのほか大きくて、

「幸せが逃げるような」気がして反省する。

夏の夕暮れは大好きなのだけど、それにしても七時前とは思えない蒸し暑さに

うんざりしながら車に乗り込む。

FMでダニエルがまた「BAD DAY」を歌ってくれている。

そんな誕生日。

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2006年8月 7日 (月)

パイレーツの戦歴

3年ぶりにキャプテン・ジャック・スパロウの夏が熱い。

パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト

前回は何もかもが新鮮で驚きに満ちていたが、今回はある程度わかって、しかも

期待度の上がった中で、前回どおり楽しめるのか多少の不安があった。

まだまだ公開中のため内容には触れないが、やはりジャック・スパロウは魅力的。

ただアクションもCGもどんどん派手になっているのが、私の好みからは少し外れて

いって、娯楽要素もぎゅうぎゅうに詰め込まれすぎておなかが一杯。

そしてなんといっても前回は敵役のジェフリー・ラッシュの敵役ながらの魅力があった。

今回はそれがないため深みにかける気がして残念。

でもあまりにもはっきりとした続き物になっているので3作目も見ざるを得ない…。

ジョニー・デップの人気ぶりは今更言うには及ばないが、実は私は

もっと以前のジョニー・デップの出演作の方が好きだ。

一番最初の出会いはプラトーン(1986) 映画館で3度観ている。私の人生で

映画館で3度観た映画はこれだけだ。見ていられないほどのつらいシーンも多く、

それでも尚3度も観たのか今となってはわからない。一緒にいた友人が熱狂的な

チャーリー・シーンのファンだったせいもあるだろうけど…多分子供だったんだろうな。

ジョニー・デップはホンの少しか出ていない。それでもベトナム人の少女を抱き上げ、

ゆっくりと歩いているシーンの憂いに満ちた目を今もはっきりと覚えている。

彼の出演作は随分見たと思うが、一番をあえてあげるとすれば

妹の恋人(1993)だろうか。映画は兄と妹を中心にストーリーが進む。

心を病む妹ジューンの前に現れる、バスター・キートンに憧れる変わり者の恋人が彼だ。

彼のマイムは中々達者で、奇妙だけれど傷つきやすい心を持つサムという青年に、

自分の殻に閉じこもっていたジューンがするすると心を開いていく様子が無理なく

理解できる。私は彼のやや暗く憂いを含んだどこか不安げな瞳がとても好きだった。

ストーリーはシンプルだが何度見ても心地良い映画だ。

彼の出演作は私にとっては好き嫌いがかなりはっきり分かれる。それは彼の

振幅のある仕事ぶりの証明かもしれない。中々の戦歴なのではないかと、

ファンとしては思う次第。

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2006年8月 5日 (土)

勝者の憂鬱

メディアの力のすごさを感じながら、興味の全くないはずの世界戦を見てしまった。

私は格闘技全般はあまり好きではないため、ほとんど見ない。

なので詳しいルールはわからないのだが、判定に関してかなりの物議を醸し出したのは

理解できる。最後のゴングがなって判定が出るまでの時間、亀田選手の「負け」を

確信した観戦者は多かっただろうと思う。

翌日からの元チャンピオンたちや解説者たちのなんとなく奥歯にものの挟まったような

説明や、素人がわからないのをいいことに、大した説明もなく

「冷静に分析すれば亀田の勝ち」

などという断言を聞いても全く腑に落ちなかった。

でも今日、元ボクサーの漫才師であるトミーズ雅のポイントのつけ方の詳しい説明と、

「喧嘩なら亀田の負けです。でもこれはボクシングの試合だから」

という言葉を聞いてやっとなるほどなと思った。

私のような無知な人間はポイントのつけ方というものに疎いから忘れがちだが、

これはきちんとルールの決められたゲームなのだ。

見た目には亀田選手のダメージの大きさは明らかだったけれど、ボクシングが

そのポイントで判定されるゲームである以上確かにそういうこともあるのだろう。

勿論これはトミーズ雅という個人の見解だからそれが絶対的なものではないだろうが、

試合以降すっきりしなかった私のもやもやを綺麗に晴らしてくれた。

それにしても判定云々は選手には無関係のことだし、勝ちは勝ちなのだから、

もう少しすっきりと彼の功績には拍手を送るべきだと思う。

むしろ私は今までの彼の数々の無礼なパフォーマンスを黙認していたメディアが、

今何故、ここまで彼の勝利を価値のないものに貶めようと騒ぐのか、

その良識のなさに心が痛む。

だったら、もっと言うべきところはあったはずだ。

何があろうと他者に対しての礼を失してはいけないのだと、それが社会常識なのだと

誰かが厳しく教えるべきだし、批判するならそこだろう。

それを笑って受け流しておいて、あの試合を見て何を言うことがあるだろう。

あの試合に関して彼に何の非があっただろうか?

彼の切り取られたようにしなやかな体、打たれ、強いダメージを受けて

フラフラになりながらも尚、戦い続けたあの姿にかける言葉は他にないのか?

試合後に彼は、もっともっと努力して強くなって今度は良い試合を見せると言った。

無様な姿を見せて申し訳なかった、と。

その言葉で彼がすでにどれ程多くのものを犠牲にし、努力を重ねてきたかがわかる。

正直に言って彼の馬鹿馬鹿しい子供じみた無礼なパフォーマンスは大嫌いだ。

でも今回は素直に賞賛の言葉を届けたいと思う。

チャンピオンおめでとう。良い試合でした。

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2006年7月31日 (月)

空に星が綺麗

最初に愚痴はこぼさないと決めた。

どんなに嫌なことがあっても、何だかやりきれない辛い気持ちになっても、

無差別に吐き出して発散するだけの悪口や愚痴は絶対に書かない。

だから今は鼻歌を歌いながらこれを書いている。

斉藤和義も唄っている。

口笛吹いて歩こう 肩落としてる友よ

いろんなことがあるけど 空には星が綺麗

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名前はガブリエル

Kyoto昨日京都をふらふらしていたら、出会いました。

なんか見てるし。なんか釣ってるし。

決してかえるが特別好きなわけじゃないけれど、

最近何故か愛らしいかえるに頻繁に出会うんです。

…でもなんで釣ってんの?

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仮想空間で幸せになる

京都の美術館「えき」KYOTOでのウィリアム・モリス展を見に行く。

最終日で日曜日ということもあり中々に盛況で、テキスタイル、壁紙、

家具などと併せてステンドグラスの絵柄をバックライトフィルムで展覧したりと、

こぢんまりとはしていたが、見ごたえのある良い展覧会だったと思う。

ウィリアム・モリスについては全く詳しくない。…ので中途半端な解説ないほうが

いいのかもしれないが、「近代デザインの先駆者」と呼ばれた彼は、

20060715_200367特権階級のものであった芸術を労働者階級にも普及

させるため 、生活と美の調和を目指し、質の高い

室内装飾品を作り出した人なのだそうだ。

繊細かつ大胆な色使いとデザインの壁紙やタペストリーは

確かに華やかだったが、部屋を模したスペースに壁紙や

タペストリーに囲まれて配置された家具の中にあった、

ランプがとても素敵で印象的だった。

その他にも実用性はなさそうだけれど、美しいタイルで彩られた暖炉など、

見ているだけで、ちょっと幸せになる、そんな部屋があった。

思わず「自分の部屋に欲しいなぁ」などと浅ましく呟いてしまったのでした…。

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2006年7月30日 (日)

真夜中にコブクロについて考える

録画していたMステをみる。

コブクロの新曲は夏らしいなとは思うけれど、カップリング曲の「あなたへと続く道」の方を

毎朝リピートで聴きながら通勤している私にはそれ以上の感慨はなく、

「黒ちゃん、髪が随分短くなったんだね…」などとちょっと呟いて終わる。

何故かレッドホットチリペッパーズを聴いてテンションが上がる。

そして福耳の「惑星タイマー」は良い曲だと素直に気に入る。タイトルも好きだ。

Mステはさくっと観終わってしまったのだが、

でも、コブクロのDVD LIVE AT 武道館 は聴き所が満載でとても楽しい。

歌もトークもかなり飛ばしている上に副音声までハイテンションで、なにより二人が

とてつもなく楽しそうなので、その空気が感染して楽しくなってしまうのかもしれない。

ずっと以前、コブクロの歌は好きだったが黒ちゃんの声はそれほど好きではなかった。

大きな体に見合った野太くダイナミックな歌いっぷりや、ざらっとした質感の声が、

そのときの私の気持ちにはぴったりとこなかったんだろうと思う。

でも今は、そのソフトすぎないざらっと感が気持ちが良い。

DVDでは思わず泣いてしまって歌えなくなっていたが、「桜」の彼の声は

本当に好きだと、何度聴いても思う。いつもは泣いてしまう小渕くんが

黒ちゃんが泣いてしまうと、一転ぐっと踏ん張っているのが見事なコンビネーション。

ちなみに私が参加した神戸ワールドのライブでの私の中でのNO.1ソングは

同じ窓から見てた空」 この曲の黒ちゃんの声の迫力はちょっとすごかった。

泣きました。

そういえば、

何かのインタビューで、二人の曲作りについて「小渕は積み重ねていくが、自分は

最初に大きな幹のようなものがあってそれを削り取っていく」というようなことを

彼が話しているのを読んだことがある。

なるほど、確かにそうなんだろうなと思った。

彼の「大樹の影」などは小渕くんの繊細な曲に比べて随分おおらかな印象を受ける。

彼が作る曲は多くはないが、小渕くんの曲との対比が面白くて良い。

それにしても違う嗜好や個性が見事に融合するというのは、やはり難しいことだと思う。

自分とは全く違う相手を尊敬して受け入れていく素直さ、謙虚さがあるというのが、

ある意味彼らの魅力でもある気がする。

10月の大阪城ホールのライブのチケットを何とか手に入れた。

生でその楽しい空気のるつぼに引き込まれに行って来ます。

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2006年7月25日 (火)

クラフト・エヴィング商會のおはなし

少し前に本のタイトルにこだわるということを書いた。

そして今度は装丁の話を書くと、まるでいつも本を内容なしで選んでいるみたいで

なんだか嫌なのけれど、それでもやっぱり装丁の話。

装丁が素敵で思わず手にとってしまう本がある。

文庫本や単行本などは出版社ごとに装丁が揃っていて、並べると統一感があるが、

新しい出版社のシリーズものほど、その装丁が凝っているものも多いようだ。

新潮クレストブックスシリーズは結構好きで4冊持っている。

「逃げてゆく愛」「朗読者」「停電の夜に」「ペンギンの憂鬱」 特に前二作は

静かだけれど語り掛けるような、力強さを感じる本当に素敵な表紙だ。

でも装丁といえばやはり クラフト・エヴィング商會 本だと思う。

最初に出会ったのは「針がとぶ」「フィンガーボールの話のつづき」(吉田篤弘著)

クラフト・エヴィング商會というのは吉田篤弘と吉田浩美のお二人による共同名義で、

1998年から著作、本の装丁などを手がけているのだそうだ。

個人名義で書かれた小説も装丁はクラフト・エヴィング商會で、決して派手ではないが、

静寂と温かさを兼ね備えた優しい装丁ばかりで、並べて眺めると幸せな気持ちになる。

「クラウド・コレクター」「アナ・トレントの鞄」「十字路のあるところ」などなど、

タイトルマニアの心も十分に満たしてくれる。

勿論他の作家の本の装丁も数多く手がけていらっしゃるので、たまたま出会う事も

多々あって、それはそれで中々楽しい。

たとえば「なんといふ空」(最相葉月著) 「思い出のむこうへ」 (小澤征良著)は

後で知ったが、なるほどと思わせる。シンプルで色がとても良い。最相葉月の著作は

他にもクラフト・エヴィング商會装丁のものが何冊かあるらしい。

大好きなものが思いがけなく見つかるのはちょっと宝探しみたいな楽しさだ。

素敵な装丁に胸躍らせるような乙女心をいまだしつこいほどに失わない私なので、

勿論素敵な絵本に出会っても狂喜乱舞する。でもそれはまた別の機会に…。

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この写真はアビニョンの本屋で出会った

レターセットのBOXで一目ぼれしました。

好きなものに出会えるのって幸せなことです。

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2006年7月23日 (日)

37℃のロックンロールミシン

37℃は微妙な体温だ。

もともとの平熱が35℃そこそこの人間には大したことはないとはいえ、

やはり体の異変を感じるところだし、常から高い体温の人間には、37℃に

達したことすら気づかない程度のものだろう。

ついさっき 37℃ というドラマを見た。作家の石田衣良プロデュースの

恋愛ドラマで、「日本の恋愛温度を1℃上げよう」というサブタイトルがついている。

恋愛温度も体温と同じで結構個人差のあるものだと思う。

私は「恋愛温度を1℃上げよう」なんてフレーズにはやや気恥ずかしさを

感じてしまうタイプなのだが、ついつい最後まで見てしまった。

主演が緒川たまきだったからだ。彼女はもちろん綺麗な女優さんだが、

ただ古風というだけではなく、ちょっと浮世離れした雰囲気を持つ人だ。

だから彼女が主役というのはちょっと不思議な気がする。現実離れしている存在には

感情移入しづらい気がするから、というと言い過ぎかな?

でもとても気になる人です。

ところで彼女の夫役の水橋研二という役者さんは、爽やかな笑顔が印象的だったが、

何故か名前に見覚えがある。見ているうちに唐突にあっ、と思い出した。

映画「ロックンロールミシン」でくるんくるんのパーマをかけ、ひげを生やしていた彼だ。

あまりの容貌の違いに呆気にとられてしまった。

ロックンロールミシン は私のお勧めの加瀬亮出演の映画(2002)で、

池内博之、りょう、津田寛治、宮藤官九郎などなど、あげると切りのないほど

中々濃いメンバーの映画。途中に元 LUNASEAのSUGIZOが出て来たときは、

たまたまこの映画に誘った友人がSUGIZOファンだったため、二人して本当に驚いた。

この映画は熱さもありながらもやや地味な、それこそ37℃的微熱映画で、

面白い!といえる程の満足はなかったが、全体に流れる空気やキャラクターは

決して嫌いではなかった。もう一度観てみたいと、今ちょっと思っている。

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今、気になっていること

無期延期になったフジテレビのスペシャルドラマ「東京タワー」(原作 リリーフランキー

主演 大泉洋 / 脚本 土田英生)の放送がいつかあるのかどうか。

MONO好き&どうでしょう好きとしては、楽しみにしていただけに結構気になるところ。

そしてその原因となった彼のその後の人生。

いつも様々な事件が起こるたび、事件を起こした人々がこれからどのように

生きていくのだろうと、ついつい考えてしまう。

特に最近多い、親を殺害する子供たちには本当に聞いてみたいとさえ思う。

今、こんな状況になってそんな時にこそ救いになるはずの親を、色々な葛藤や

軋轢があったにせよ、何故殺さなくてはいけなかったのか?

その先には一体何が見えていたのか。

話がそれた…

実は先日、私は車で事故を起こしてしまったのだけど、停車した後でブレーキが緩んで

ゆっくりと追突する、というけが人もなく比較的ダメージの少ない事故だったために

解決も早く済んだが、事故当初はかなり落ち込んだ。

何か、魔がさしたように事故を起こした自分に対しての落胆だった。

小さなことだけど、生きているとちょっとした迷いや思い上がりといった感情の揺れで、

思いもかけない事態を引き起こしてしまうことって、確かにある。

一度そんな事態に陥ると、自分が今まで信じていた安全な世界は幻想で、

いかにギリギリの線上を危うい足取りで歩いているのかがわかる。

ほんの少しの判断の誤りが人生を狂わせてしまうこともある。

もちろん、彼の事件と私の事故は全く質が違うし、彼は自分の行動の責任をとって

社会で糾弾されてしかるべしなのだろう。

でも思う。

生きていくということは怖い。本当に怖い。

人はだから怖いという思いを抱きながら生きるべきなのだと思う。

恐れを知らないということ、そのことが一番恐ろしいことなのかもしれない。

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2006年7月19日 (水)

「僕の弟」に泣かされる

TBSのリンカーンという番組を見ていたら、「ミッドナイトリンカーン」という企画をやっていた。

芸人たちが車に一人ずつ乗り込み、心癒される「良い話」と「良い曲」を流すラジオ番組を

聴いて、心を癒そうという企画…らしい。

(途中から観たので企画意図などは若干怪しい。)

とにかく、私もなんとなく聴いていて、芸人たちに負けじと大泣きしてしまった。

どれも選りすぐりの良い話だったわけだが、その中に「僕の弟」というタイトルの

エピソードがあった。この「弟」は漫才コンビ中川家の弟、礼二のことだ。

兄の剛が、二人が人気が出始めたちょうどその頃、パニック障害になってしまい、

一時期全く仕事が出来なかったのは割と有名なエピソードなので、

話自体は以前にも聴いたことがあった。

舞台にも立てず、テレビにも出られず、最後に残った京都でのラジオの仕事も

京都に行くための電車の中でパニックの発作を起こしそうになり、

何度も途中下車をし、座り込み、治まるのをただひたすら待つ。

弟は「ゆっくり行こう」と声をかけ、座り込む兄の横に何十分も黙って座っている。

才能ある弟の足を引っ張らないために、もう辞めるという兄に、

「お前とやないとやる意味がない」と言って、静かに弟は待っている。

待つ、というのは非常につらい作業だ。

自分からは何も出来ず、来るかどうかすらわからない、「その時」が来るのを

ただ信じるしかない。

兄は突然襲った嵐のような病が通り過ぎるのを耐えて待ち、

弟は自分の力では如何ともしがたい、まるで天災のような出来事に、恐らく驚き、

憤り、嘆き、そして兄と一緒に待ち続けた。

待った弟だって辛かっただろうが、待たれる兄はさらに辛かったに違いない。

二人のどちらの気持ちを考えても、そのやりきれなさに胸が痛む。

それでも私がこの話を聴いて泣いてしまうのは、彼らが幸せだと思うからだ。

それほどの絶望的な状況の中、黙ってそばにいてくれる弟を持つ兄と、

どんな状況であろうと、自分のただ一人の相方なのだと信じられる兄を持つ弟に、

ただただうらやましさ感じながら、彼らの幸運に涙が出て仕方がなかった。

それにしてもお兄ちゃんはもうすっかり良くなり、今ではテレビで大活躍なのだけれど、

画面で見るたびついつい「頑張れ~」と見守るような気持ちになっちゃうね。

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2006年7月10日 (月)

善人の靴下

劇団 魚灯の公演「善人の靴下」を難波の精華小劇場で観た。

魚灯も初めてなら精華小劇場も初めてで、まず迷子にならずに行けるかどうか、

それが気になって仕方なかったが、駅から近かったこともあって無事到着。

元は小学校だったという建物の中の体育館が、今は客席200席の劇場になっている。

目的はMONOの役者である尾方宣久と同じくMONOの奥村康彦の舞台美術だったが、

台詞の独特のリズムや不思議な世界に引き込まれた。

設定は重いが、くすっと笑いが出るようなとぼけた味もあり、決して後味が

悪いわけではない。ただ、出口のない感じが徹底していて、閉塞感が強い気がした。

尾方宣久のはっきりとした発声は割と好きなんだけど、MONOと違うニュアンスのものも

ちょっと見てみたかったかな。

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2006年7月 3日 (月)

フライド・グリーントマトを食べてみる?

何年ぶりだかわからないほど久しぶりに「フライド・グリーントマト」をビデオで観た。

キャシー・ベイツ、ジェシカ・ダンディー、メアリー・スチュアート・マスターソンなどという

顔ぶれに懐かしさとほの寂しさを感じる。

ストーリーはまぁ、今更という感じなのだが、その中に出てくるフライド・グリーントマトが非常に気になる。

果たして本当に美味しいのかどうか、だ。

映画の中でメアリー・スチュアート・マスターソンがめちゃくちゃ不味そうに調理していたが、

キャシー・ベイツは中々の腕前を見せていた。「美味しい」とジェシカ・ダンディーは

喜んで食べていたが、本当だろうか?

レシピは簡単で、

 トウモロコシ粉、小麦粉、砂糖を混ぜ、それを5ミリほどの厚さのトマトの両面にまぶし、

 フライパンに少し多目に油を入れて熱し、トマトを小麦色になるまで揚げ、

 トマトを裏返してさらに揚げる。最後に塩コショウで味付ける。

だけらしい。ポイントはトマトが熟れる前のグリーントマトである…こと?

トマトがあまり好きではない、という個人的事情を抜きにしてもそれほど食指の動く

料理であるとは思えない。それでもスクリーンの中で見ると、どうしてこんなにも

試してみたい衝動に駆られるのだろうか?

もしかしたら、人が美味しいものを食べている時の独特に幸せな感じが、

ただ好きなだけなのかもしれないのだけど。

とりあえずフライドグリーントマトの美味しい食べ方を探してみようかな。

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2006年7月 2日 (日)

蛙鳴蝉噪(アメイセンソウ)なブログたち

蛙鳴蝉噪と漢字で書いてしまうとそれほどでもないのだけれど、

アメイセンソウという言葉の響きは結構好きだ。

読んで字の如く「蛙や蝉が騒がしく鳴きたてることから、がやがやと騒ぎ立てること、

無駄に騒ぎ立て、意味のない議論、つまらない文章」などの意なのだが、

濁点がないためか、言葉にうるささを感じないところが不思議。

ところでこの蛙鳴蝉噪というタイトルのついたブログは結構多い。

言葉の意味合い的にもタイトルにし易いというのは良くわかる。

暇に任せて検索してみても中々の数がヒットする。今まで全く知らなかった人のブログを、

「蛙鳴蝉噪」という言葉の繋がりだけで読み進めているのはちょっと不思議な感覚。

ほとんどが普通の会社員であったり学生さんであったりの日記のようなもの

なのだが、読んでみるとそこそこ面白かったりする。

時にはプロのように達者な評論めいたものまであり、蛙鳴蝉噪とはいえないものも。

ついでカタカナのアメイセンソウでも検索してみると、トップに出てきたのが

森下亮のアメイセンソウ」というブログ。タイトルに名前が入るので、これはさすがに

一般人ではない感じ。ためしにお邪魔してみると、やはりクロムモリブデンという

劇団に所属する役者さんのブログだった。

クロムモリブデン??Cr(原子番号24)Mo(原子番号42)遠い昔の記憶。

言いにくいけど一回言っちゃうと忘れない秀逸な名前だ。

そしてちょっと驚いてしまったのだが、クロムモリブデンの舞台は見たことはないし、

ご本人にも直接お会いしたことはないにもかかわらず、私はこの人を知っている。

実は私が以前から大好きでよく拝見しているHPのなかの日記にお友達として

割と頻繁に名前が出てくる人だったのだ。

そのHPの方は一般の方で役者さんでも舞台関係の方でもない。

まさかこんなところで出会おうとは、広いようで狭いネットの世界のすごさを痛感した。

暇に任せて色々やってみると、ちょっとした発見があったりする、

そんな日曜の午後でした。

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自転車キンクリート

自転車キンクリートという奇妙な名前の劇団が好きだった。

正確に言うと私が好きだったのは自転車キンクリーツカンパニーになってからのことだ。

自転車キンクリートというのは1982年に日本女子大の学生だった6人が

女性だけの劇団を立ち上げたことに始まる。私が観始めた1995年頃は、

自転車キンクリートを基盤としたプロデュース公演、自転車キンクリートSTOREに

なっていた。それをプロデュースするのが自転車キンクリーツカンパニーという訳だ。

なんだかややこしい…。

とにかく女性ならではのかしましさ、賑やかでおかしくてそして哀しい。

そんな様々な女性らしい表情を、時にストレートに時にさりげなく見せてくれる

稀有な劇団だ。

大好きだったのは旅行先で倒れた母が魂だけ家に帰ってきてしまい、何とか意識を

取り戻してくれるべく奔走する五人兄妹たちのドタバタがおかしい96年の「蝿取り紙」

これは何度か再演されている。ほとんどキャストが変わらないが、兄と弟が少し変わる。

私は兄役が川原和久(劇団ショーマ)で弟役が大倉孝二(ナイロン100℃)の

パターンが好き。間違いなく兄弟な感じがするのだ。何故だか。

他に印象的だったのは、大正時代が舞台の男性四人芝居だが「絢爛とか爛漫とか」

佐々木蔵之介が所属劇団の惑星ピスタチオ辞めた年に出演していたために、

やけに心に残っているのかもしれないが。

そして生の舞台では見ていないがテレビの中継で見た「ソープオペラ」「トランクス」は

そのテンポのよい笑いに思わず引き込まれて、舞台を見に行くきっかけになった作品だ。

そんな大好きだったじてキンも大阪の小劇場が次々閉鎖されていく中、

あまり関西公演がなくなってしまったため、残念ながら近年は見ていない。

最後は2004年の「法王庁の避妊法」の再演だ。

それでもHPだけはずっとチェックし続けていたら、何年かぶりに脚本の飯島早苗さんの

コラムが復活していた。

このコラム、リニューアル前のHPで二度ほど載ったきり、全く更新がなく、

リニューアル後にいたっては一度も載る気配すらなかった。

ところがいきなり復活した上に、ブログまで始めたとの報告。嬉しくて見に行ったら

本当に始められたばかりだった。ちょっと懐かしい気持ちで飯島さんの文章を

読んでいたら、じてキンの舞台がたまらなく観たくなった。

自転車キンクリーツカンパニーのみなさま、関西にも是非きてくださいね。

待ってますので。

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2006年7月 1日 (土)

切ない子供たち

ジャン・コクトーの著書に「恐るべき子供たち」があるが、

映画の子役たちはまさに「恐るべき子供たち」だ。

映画に小さな子供が出てくると、私は彼らの思うツボに引き込まれてしまう。

演技とは到底信じられないほどの、その可憐さやいじらしさに何度でも涙する。

クレイマー・クレイマー では突然妻が夫と息子を置いて家を出ることから物語が始まる。

取り残された二人は、戸惑い悩みながらお互いの距離を少しずつ縮めていく。

最初はショックの大きさから恨むような目で父を見つめていた小さなビリーが、

母と暮らすため父と別れることになった最後には、涙ぐみながら見事なコンビネーションで

父とフレンチトーストを焼き上げる姿がたまらなくいじらしい。

マイライフ・アズ・ア・ドッグ のイングマル少年は12歳なのだが、母を病で亡くしてしまう。

でも彼は、どんなに悲しいことがあっても人工衛星スプートニクに乗せられ、

餓死してしまったライカ犬よりは自分は幸せなんだと思う。

悲しみをこらえる術を身につけてしまった12歳を、私たち大人はどんな風に見守って

あげることが出来るのだろう、私はそんな風に途方に暮れてしまう。

若草物語 の四姉妹を観るたびに、一人っ子の私は羨ましくてたまらなかった。

しっかりものの長女メグ、男の子のようにお転婆なジョー、おとなしくはにかみやのベス、

おしゃまなエイミー。誰か一人に自分を投影するというわけでなく、あの中に

入りたいと願ったものだった。

ところで私が観た1949年度版では三女ベスと四女エイミーの順番が入れ替わっている。

どうしても三女ベスにマーガレット・オブライエンをキャスティングするための、製作側の

意図があってのことらしいが、このベスが本当に良い。とてつもない恥ずかしがり屋で、

はにかみな少女が、勇気を振り絞ってお隣のローレンス氏を訪ね、プレゼントのお礼を

言うシーンの愛らしさ。彼女でなければと思った製作者の気持ちがよくわかる。

幼い頃から体が弱く、もう自分の命が長くないと悟った時、自分のことを想って

涙するジョーに語りかける。「悲しまないで」と。その線の細い儚げな姿は天使を

思わせる。恐らく死を目の前にするが故の自分の運命を受け入れた、潔さと清らかさ

がそう感じさせるのだろう。

映画を観ながら涙する私は、子役たちを観ているのではない。ビリーの

寂しさをこらえるけなげさに泣き、イングマルを取り巻く悲しい出来事に胸を痛め、

ベスの如何ともしがたい運命と、それを受け入れる姿の崇高さに心打たれる。

子供時代を経てすっかり大人になってしまった私には、子供たちには幸せであって欲しい

と願うしか出来ない。現実の世界においても、映画の世界においても。

大人が子供たちの幸せを願わない世界など意味がない。

ましてや大人が故意に子供たちを傷つけるなんてもっての外なのだ。

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2006年6月25日 (日)

ヨーロッパ制覇サイドストーリー

先日記事にした「ヨーロッパ21カ国完全制覇」、とうとう副音声まで

制覇してしまったが、その途中で気づいたことがある。

彼らと同じ1997年8月22日から実は私も旅に出ていたのだ。

私の場合はさしづめ「東ヨーロッパ不完全制覇」の旅。

チェコ、スロバキア、ハンガリー、そしてオーストリアとドイツ。

ドナウの真珠ブダペスト、世界遺産のプラハ城、エステルゴムの大聖堂などなど、

高校生の頃読んだ「ドナウの旅人」(宮本輝)を思い出しながら、

友人たちと4人の旅をしていた。

同じ時に場所は違えど同じようにヨーロッパを4人で旅していた彼らを、

DVDで今見ているのは、とても不思議な気がする。

私たちの旅の記録は写真だけだから記憶がどんどん薄れていくのを止めるのは難しい。

残念だけれど旅というのは本来そんなものなのだろう。

同時期に旅していたことを思い出したきっかけになった副音声での一言、

「この旅の何日後にダイアナ妃の事故が…」

日本に帰ってきた日、ニュースでダイアナ妃の訃報を知り、

衝撃を受けたことを鮮明に覚えている。

あれからもう9年の歳月が流れてしまった。

それでも彼女の華やかな、それでいて悲しみを秘めたその存在感はいまだに記憶に残る。

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ライフ・アクアティック

予告編を観たときに「絶対に観よう!」と決心したにもかかわらず、

結局何らかの事情で観られずに終わることは、実は結構ある。

ライフ・アクアティック もそんな映画の内のひとつだ。

ビル・マーレイを筆頭にアンジェリカ・ヒューストン、ジェフ・ゴールドブラム、

ウィレム・デフォーそして何故かケイト・ブランシェット。

怪しい面々。内容はともかく、とりあえず観てみたかった。

残念がりながらもバカなのですぐに忘れていたのだが、

先日、ケーブルテレビのプログラムを見ていると「ライフ・アクアティック」の文字が!

…しかしよくよく見てみると私の加入していないオプションのチャンネル。

加入するのか?すれば良いのか?激しい葛藤。B0009y293s09

入りませんけど。

調べてみるとDVDも発売されているようで、

観たければ買えば良いらしい。

…買いませんけどね。

と、ここまで書いていて発見。

WOWOWさんありがとう。7月19日、27日放送決定★

もう10年以上のお付き合いですが、入ってて良かった。

まあ、この記事の意味がなくなりましたけど。

見た後で感想が上がるかどうかは、謎。

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2006年6月23日 (金)

朝4時にヨーロッパ制覇

DVDを受け取ったのは21日水曜日。

次の日も仕事があるので夜更かしは出来ないため、少しずつ見ようと心に決めた。

確かに11時半にはテレビを消し、疲れも手伝って一旦は眠りについた。

何故こんなにもパッチリと朝の4時に目覚めたのかはわからないが、

とにかく、もう二度と寝られないと確信するほどすっきりと目が覚めた私は、

思い余ってDVDに手を出してしまった。

水曜どうでしょうのDVD「ヨーッロパ21カ国完全制覇」のことだ。

前夜はミスターどうでしょう鈴井貴之が「21カ国回らなければ、僕は番組を辞めます」

と、宣言したところまで。再び始まると、早々に大泉洋とディレクター陣が

ミスターを裏切って古城街道をひた走っている。

本気で不機嫌になるミスターがいい。それなのに古城にもついつい心惹かれて

どんどんみんなに流されていくミスターがもっといい。

面白さの中心は大泉洋だと思う。でも番組の流れを作るのは、やはりミスターだ。

自分の言った言葉に固執せず、自分の心惹かれるものに「うっかり」流される、

ある意味策士とも思えるその柔軟さがあるから、番組の緩急が生まれる。

スイスの美しい山々もドイツの御伽噺のような街並みも、荘厳なカテドラルも

何もかもがちっとも印象に残らない、前出の深夜特急とは対照的だけれど、

それでも何故か見入ってしまう、そんな旅がそこにあった。

結局そのまま寝られずに仕事に向かいました…。

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2006年6月18日 (日)

深夜特急

「深夜特急」 (沢木耕太郎著)を読んだのは、テレビで

大沢たかお主演の 深夜特急96 熱風アジア篇 を観る少し前だった。

自分では決して出来そうにない旅がそこにあり、ちょっとした憧れと

読み物としての面白さも手伝って一気に読みきった。

私自身が行った事のある国は、ほんの一部だけ出ては来るが、

そことてもあまり、懐かしく共感するような情景は描かれてはおらず、

作者が書いているとおり、やはり経験というのは一面的だと強く感じた。

深夜特急は香港マカオから始まり、南ヨーロッパ、最後はロンドンで終わるが、

始まりと終わりでは旅のトーンが徐々に変わっていく。

始まりの浮き立つような興奮、高揚感が薄れていくにつれ、迷いや、孤独、

明らかに旅に疲弊した様子が現れる。

それでも旅は続く。淡々と進むようでいて大きな感情の起伏を感じる。

これは沢木耕太郎という26歳の青年の一年以上にわたる旅の記録だが、

テレビの深夜特急は沢木の旅をドラマ化したものであり、また

大沢たかおの旅を記録したものでもあった。

本の内容を忠実に辿るだけではない、今をリアルに感じさせるものが画面にあった。

だから深夜特急は何度も読み返すけれど、録画したビデオも割と何度も観た。

同じものであり別のものでもあるから、全然別の面白さがある。

私も何度か海外に旅行したけれど、(今数えたら、8回だった)いつも

パックツアーで添乗員のいる決まりきった慌しい旅行をしていた。

それでも出かけて何日かたつと、自分が今ここで何しているのか

よくわからなくなることがある。

自分が今本当に楽しいのかどうかさえ。

でもそういう感覚って、ただ旅だけをしている空っぽな状態だから強く感じるだけで、

実は日常生活でも常に感じている感覚なのかもしれないとも思う。

握っていた手すりを放してしまうような不安定感ももっと楽しめるような、

そんな人生を送らなきゃ、そう考えてはいるのだけれど…。

深夜特急/新潮文庫 は全6巻で、テレビは 深夜特急96 熱風アジア編

97 西へ、ユーラシア篇 98 飛光よ、ヨーロッパ篇 はDVDで3巻セットで、

手に入れることが出来ます。出来れば両方を楽しんで頂きたいです。

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2006年6月16日 (金)

あなたへと続く道/コブクロ

コブクロの7月26日発売のNEWシングル「君という名の翼」の

カップリング曲が、つい先ほどラジオ番組内で発表されました。

なんと!!ツアーで発表された新曲の中で私がイチオシの

あなたへと続く道

これは個人的に非常に嬉しい。

ライブで一度だけしか聴いていないけれど、切なくて素敵な曲です。

あまりシングルCDって買わないんだけれど、これは間違いなく

買いです。

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2006年6月12日 (月)

世界の涙の量は不変だ

どこかで誰かが泣き出せば、どこかで誰かが泣き止む

「ゴドーを待ちながら」(サミュエル・ベケット)の中の台詞なのだけれど、

この頃良く、この言葉を思いだす。

きっかけはやはりあの会見かもしれない。

「あなたたちが僕を嫌いになったのは、多分僕がめちゃくちゃ儲けたからですよ」

「金儲けっていけない事ですか?」

反感は沸かなかったけれど、ずれている気がして仕方なかった。

感覚の話になると曖昧すぎて、完全に主観的な話になるんだけれど、

折り合いをつけるって社会の中の人間関係でとても大切。

金融ビジネスって誰かが得をすれば誰かが損をする。それは、世の中の

全ての事象に当てはまると思うことなのだけど。

例えば、

自分ばかりがいい思いや得をしていたら悪いから、

じゃあ次は譲りましょう、という感覚。

相手ばかりがしんどい目をして自分ばかりが楽をしたら申し訳ないから、

今度は自分がしんどい目をひきうけましょう、という感覚。

譲り合ったり、折り合いをつけたりしながら社会生活って成り立つと思っていた。

綺麗ごとに聞こえるかもしれないけれど、本当にそう思っている。

全て平均が良いといっているわけでは決してない。

むしろ手をつないで一緒にゴールするかけっこのある運動会なんて、

馬鹿馬鹿しくて笑ってしまうし、そんな教育がいいと真面目に論じる

そんな大人が教育をダメにしていると本気で思う。

世の中が不平等で不公平で理不尽なのは当たり前。

生まれもった能力もバックボーンも何もかも違う人間が、

同じだけのものを手に入れ同じような人生を歩むはずがない。

自分の力では如何ともし難い運命に翻弄されることだってある。

だから自分の人生をより良くするためにがむしゃらに一生懸命になる。

でも誰かばかりが泣いていて誰かばかりが笑っている、そんな状況に、

ふと疑問を感じる瞬間。その瞬間が大切な気がする。

決してあのファンドの人を批判ばかりしているわけではない。

彼の能力の高さは疑問の余地がないし、どんな世界にも新陳代謝は必要だ。

だから日本の経済の世界において新風を吹き込む大きな力ではあったと思う。

ただ誰かの不幸の上に立つことを自覚した上での自分の成功に

一点の曇りもなく疑問を持たない人間は、私は人として信頼出来ないし、

弱肉強食、やったもの勝ち、言ったもの勝ちばかりの世の中は、

長い目で見ればあまり幸せな社会とはいえない気がしてならない。

だからそんな風潮を助長させたりしないで欲しいと願って書いてみた。

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2006年6月 9日 (金)

In My Life ベット・ミドラーの歌声

In My Life はTHE BEATLESの曲の中でも一番と言って良いほど

大好きな曲で、かなり頻繁に聴いている。

でもIn My Life といって思い出すのは「FOR THE BOYS」という映画。

その中で戦地を慰問しているベット・ミドラーが、野外の明るい日差しの中、

ドロドロの戦闘服の大勢の兵士たちに囲まれて、透き通るような声で歌い上げていた。

ベット・ミドラーといえば庶民的でちょっと下品だけど明るくてひたむき、そんなイメージの

役が多い。この映画もまさにそんな役だったのだが、その中にあって、

彼女の歌うIn My Life は毅然とした美しさと、気高さがあり、

THE BEATLESとは全く違う印象の歌になっていた。

ベット・ミドラーといえばThe Rose があまりに有名だが、彼女の歌声は

周りを浄化するような透明感があって、本当に素敵だと思う。

彼女の歌を聴くだけでもこの映画は一見の価値あり、とお勧めしたい。

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2006年6月 8日 (木)

加瀬くんと周防監督

Shall We ダンス?の周防監督が新作の撮影に入ったというニュース。

周防監督、メガホンを取るのが10年ぶりってホントですか!?

Shall We ダンス?の話題がいつまでも尽きなかったせいか、

そんなに前の映画だという印象は全くなくて本当に驚き。

久々の新作は前作までとは趣の違う、痴漢の嫌疑をかけられた男が主人公の、

全編ほぼ法廷シーンという作品らしいです。

そしてもうひとつの驚きが加瀬亮くんが主演だということ。

彼のさらっとした質感や取り残された子供のようなよるべない雰囲気が、

私は何故だかすごく好きで、前々からやたらに気になる存在なのです。

5,6年前初めてKDDIのCMで見た時は、学生とかホテルのポーターとか

地味だけどちょっと変わった感じの役が多かったですね。 Cast_kase_1

テーマは重いですが、ちょっとミーハーな気持ちもありつつ、

来年の公開を楽しみに待ちます。

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2006年6月 6日 (火)

ニコラス・マクファーソン再び

1999年のPiper第二回公演ニコラスマクファーソンがこの夏帰ってくる。

Piperとは後藤ひろひとと川下大洋の二人のユニットだったが、いつの頃からか、

山内圭哉が、そしてさらにある日腹筋善之助と竹下宏太郎がメンバーに加わり、

今は五人のユニットになっている。

ニコラス・マクファーソンはまだ腹筋と竹下の加入前の公演で、

130Rの板尾創路や劇団M・O・Pの三上市郎、石丸謙二郎など、

中々多彩な顔ぶれで面白い舞台だった。

そして今回再演となるわけだが、出演者に第三舞台の小須田康人

劇団M・O・Pの三上市郎、そして何故かアドゴニー…などなど。Img_nicholas

小須田康人はただただ私自身が学生時代からのファンなので

とにかく嬉しいし、三上市郎も舞台でのインパクトは大。

アドゴニーは…想像しがたい。だからちょっと気になる。

なんだか不思議な舞台になりそうです。

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